心臓の宗教的な意味

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医学史の通史で17世紀の章に入った。血液循環のハーヴィーや機械論のデカルトを論じる章である。前回のパラケルススに較べるとずっと好きな人物たちなので、予習に向かう足取りも軽い(笑)

ハーヴィーは『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』(1628) で、心臓を王権神授の国王に例えている。国王が身体の礎であり、国王から総ての権力が発するように、心臓も身体の中枢であり、そこから血液が流れだして帰っていく要である。このような政治の話と並んで、宗教的な解釈ももちろん研究されている。手元にあった James Peto ed., The Heart (2007) などを見ると、美学でも宗教でも心臓が中心になっていて、それをどうまとめようか考えていたところ、ちょうど public domain で記事が組まれており、心臓を罪と救いの身体の座と考える一連の版画が提示されていた。罪を犯した心臓には、悪魔と悪徳が住み、7つの悪徳を象徴する動物が描かれている。たとえば孔雀は傲慢の象徴である。しかし、死を思い、心の中を見つめ、光がもたらされると、心臓には宗教心が入るようになる。しかし、いったん救われても、すぐに心臓にこの世の悪徳が入ると罪びとになってしまい、それを防ぐと宗教者のまま死ぬことができる。