プシコナウティカの会 磯野真穂/兵頭晶子/藤原なおみ

プシコナウティカの会。今回は磯野真穂さんの書物を兵頭晶子さんたちが評論する会とのこと。私は別の学会で出席できませんが、ぜひお出でのほどを。

 

*********  第10回 プシコナウティカの会  *********

日 時  2017年11月11日 (土) 13:00~17:00

場 所  目黒区五本木(ごほんぎ)住区センター第2会議室

         東京都目黒区中央町2-17-2 ℡ 03-3791-3541 東横線「祐天寺」駅徒歩10分

 (「目黒精神保健を考える会」(代表:大賀達雄)名で予約 下記地図参照 予約不要 直接会場へ)

 

テーマ  ふつうに食べること、ふつうに他者と関わること

――『なぜふつうに食べられないのか』の著者、磯野真穂さんを囲んで

報告者    磯野真穂さん (国際医療福祉大学専任講師・文化人類学

コメンテータ  兵頭晶子さん (民俗学・日本近代史)、 藤原なおみさん (コピーライター)

 

 磯野真穂著『なぜふつうに食べられないのか』が扱っているのは大きな問題です。単に「摂食障害」を扱ったというより、本質主義やそれを含むところの広義の還元主義と懸命に闘っている本として私は読みました。精神医療でも還元主義は幅を利かせています。例えば、うつ状態への対処としてセロトニンという脳内物質のコントロールだけに着目してしまう傾向などはまさにそうです。

いわゆる「摂食障害」の場合、症状を心や身体の問題に還元してしまう立場はよくみられます。それが心への還元だと治療法は本質主義(対人関係療法など)になり、身体への還元だと生体物質論(栄養指導など)になります。磯野さんはこれらを厳しく批判した後、「摂食障害」の当事者においては、自分の日常の時空間が、自然科学の時空間(体重、カロリーなどの数値)、専門的言説 (家族モデルを受け入れた医師とのつながり)という外部に移動してしまっている点に着目しています。

「ふつうに食べる」とはどんなことで、それができなくなるとはどんなことなのか。食べるという営みの失調を、生の準拠点が自分の外部の何者かによって掠め取られた事態とみなす磯野さんの捉え方は面白いと思います。また「食べ物と他者はよく似ている。なぜならそれらはふたつとも人間にとって怖いから」(280頁)ともあります。ドキリとする指摘です。他者の怖さとは何か。これもまた刺激的問いです。著者の磯野さんご自身とお二人のコメンテータのお話を基に皆でじっくり考えてみましょう。

 (文責:井上芳保@司会予定 inoueyoshiyasu@gmail.com)


以前、井上芳保さんからのお誘いで、磯野真穂さんの『なぜふつうに食べられないのか』についての書評を書かせていただいたことがある(日本社会臨床学会編『社会臨床雑誌』24巻1号)。書評とはどう書くものなのかを知らない私は、私と、夫と、当時亡くしたばかりの最愛の母を通して、「食べる」という行為がどんな意味を持っているのかを勝手気ままに書き散らした。申し訳ない限りである。

 

*「悲しい祝祭」と「〈孤人〉社会」との重なり合いから――――――――――――――――――――

磯野真穂さんの『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』(春秋社、2015年)では、「悲しい祝祭」というキーワードが登場する。「彼女たちが食べ方を変えたそもそものきっかけは、人と人とのつながりをより快適なものに修正することだったのである。しかしそれは結果的に、孤立という彼女たちがもっとも望まない方向に彼女たちを誘導することとなった。…過食は続ければ続けるほど孤立を生む、悲しい祝祭なのである。」(P.256)。この考察は、私が問題提起した〈孤人〉社会のありようとも重なり合う。「加えて、過食が精神疾患の症状であるという事実が、彼女たちの孤立を深めていく。…この認識は、病気の人とそうでない人の間に越えがたい壁も作り出す。」(PP.255-256)。この指摘は、『精神病の日本近代――憑く心身から病む心身へ』の著者としても、深く受けとめたい問題提起である。当日は、こうした重なり合いに基づいて、議論を交わし、深めたい。    (文責:兵頭晶子)

*「治る」ということ――――――――――――――――――――――――――――――――――――

私は今、ふつうに食べられなかった過去を持つ、ある女性との関わりをたいせつにしている。彼女は「もう治った」という状態にある。あぁそう言えば、といったふうに「精神科にかかった」とさらりと言葉にもできる。しかし、何かが彼女の中に棘となって確実に在る。どこに刺さっているかわからないがチクリと痛む。痛みがあるはずの場所に目を凝らしても棘は見つからない。だから抜くこともできない。一歩を踏み出そうとする時、その棘は痛む。「治る」とはどんなことなのか、真穂さんのお話しの中から、皆さんとの議論の中から考えてみたい。                   (文責:藤原なおみ)