ドニゼッティの晩年の梅毒性精神疾患による入院-フランスとイタリア

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https://en.wikipedia.org/wiki/Gaetano_Donizetti

ガエターノ・ドニゼッティ (Gaetano Donizetti, 1797-1848) はイタリア生まれで国際的に活躍したオペラの作曲家。『ルチア』『愛の妙薬』などが著名な作品。『ルチア』はスコット原作の小説に基づき、愛の狂気の芸術表現を学生に映像で見せたいときには素晴らしい。『愛の妙薬』は、にせ薬品を売りつける偽医者が重要な主人公である。これは、医療関係者を怒らせるコメントかもしれないが、これを見ると、男と女の人生は偽の薬をどう信じるかにかかっているという思想がよくわかる。最後に勝つのは、偽医者自身が効かないと知り尽くしている偽薬が引き起こす社会が幸福になる現象である。このような作品で30代、40代になると成功し、人生全体では70点ほどのオペラ作品がある。

疾病や医学を取り上げたことと無関係だと思うが、50歳に近くなると、精神疾患となった。私がいまの段階で確認したのは英語の Wikipedia で、晩年の疾病の部分の記述は素晴らしい水準である。医学史が学問として成立していると社会と文化の知識がどうなるかが想像できるから、人生の最期の部分をぜひ読んでいただきたい。

ドニゼッティが病んだのは梅毒が中年になると現れる「進行麻痺」であった。この疾病ゆえに、パリの遠い郊外で、エスキロールと関係がある Maison Esquirol という病院風の館を持っている療養施設に収容された。その折、パリで富裕な患者の梅毒が専門であったロベール・リコールというエリート医師にも診断された。この施設はおそらく高級な施設だったのだろうか、パリからやや遠く、パリの街の中に在住しろという友人からの請求もあり、パリの街中に帰って来ることになった。ただ、ここでは拘留されるような形になっている。

この部分で一番の重要な点は、イタリアに帰ることができるかどうかということによる。本人の家族もかなりの医者たちもイタリアでの休息がいいだろうと確信していたが、当時のフランスの法律が足かせになった。旅行が疾病に苦しむ患者に害悪を与えないという証明書が必要になるのである。そのため、パリ郊外とパリ市内で精神医療のケアを受けていたドニゼッティを移動すること、あるいは国際移動することが法的に難しい状況になっていた。結局、イタリア帰国を支える医師たちに認められて、ベルガモに帰国して領主の好意で良好な館で死ぬことができた。

これはあまりにコアな問題だけど(笑)、国際療養に関するフランスの特異性について重要なヒントになっていないだろうか。あるいはイギリスの有利さなのかもしれない。ここで重要なのは、精神疾患なり他の病気なり、国際的な移動をして療養を受ける法的な規制の問題である。長距離を移動すること、場合によっては国際的な移動をすることが、医学的に意味があるかどうかということを国の法が認めているかどうかという問題である。ドニゼッティは、それを承認してくれる医者たちをそろえることがとても難しかったという点があった。医者としては自分の患者ではなくなるということも憶えておこう。

註を見ると、この問題に触れているのは偉大な音楽学者である。フランスのこの問題もあの本を読めばいいというのは分かっている。ちょっと見てみよう。

写真は梅毒医のフィリップ・リコールの風刺画。ウェルカム図書館が持っている。1867年のもので、子供なり天使なりが出ている意味はよく分からない。