Madness between Silence and Eloquence: The History of Mental Illness in Modernist Tokyo 1920-1945 (仮題)の第一章の背景の部分、それも精神病者監護法の部分を書いてみた。大津事件、相馬事件、九鬼波津子事件はかなりできた部分もあり、もう一度きちんと書き直す。幸田露伴の『椀久物語』(1899-1900) がよかったので、それについて書いてみた。
1890年代には、精神疾患に関する社会的・国際的な問題が数多く現れて、1900年に精神病者監護法が設定された。1891年には大津事件が起きて、巡査津田三蔵が来日中のロシア皇太子を剣で襲撃した。総理大臣らは津田巡査を死刑にしようとしたが、彼が精神疾患を持つことを根拠として死刑とはならなかった事件である。1883年から1895年にかけて、旧藩主の精神疾患をめぐる家族と家臣の論争である相馬事件が話題となった。現在は福島県にある相馬藩(中村藩)の最後の藩主である相馬誠胤(そうまともたね 1852-1892)について家族は彼の精神疾患を理由として監禁したが、彼の家臣が彼は精神疾患ではないと主張してこれを助け出し、東大教授の榊俶(さかきはじめ )、エルウィン・フォン・ベルツ ( 衛生局の後藤新平などの著名な医師たちによる診断が行われた。相馬誠胤は1892年に死亡して、家臣はこれが毒殺によるものであるという告発を行い、1890年代には、九鬼隆一という文部官僚であり、美術界の庇護者であり、貴族院議員となった人物と、彼の妻である九鬼波津子(はつこ)で、美術家の岡倉天心の愛人であり、九鬼周造の母親であった人物の間に、波津子の精神疾患をあらそう議論がおきた。
文学の世界で興味深い作品の一つが、幸田露伴の小説『椀久物語』である。この作品は、もともと雑誌『文芸倶楽部』に1899年1月と1900年1月の二回にわたって掲載された。いわゆる椀久の物語は、江戸時代の大阪に実在したといわれる事件であり、井原西鶴の浮世草子や浄瑠璃などにされている、近世とテーマが連続していることを示している。それと同時に、登場人物の家族や知人が主人公の精神疾患をめぐって誤解が重なっていくことをストーリーの主軸としている。この主人公の精神疾患のある意味でのあいまいさは、大津事件、相馬事件、波津子の精神疾患事件などと同じ主題である。
『椀久物語』においては、主人公である京都で壺屋を営む富裕な久兵衛が、京都の遊郭である島原の太夫である松山を愛するが、母親に勘当されて貧困化して、それでも松山に会いに行くという話が前半の重要な部分である。その過程において、久兵衛(あるいは椀久)は正気を失っていくが、母親も松山も久兵衛が狂気であることをつかめないまま話が進行していく。母親に遊郭出入りを厳しく叱られると、久兵衛は遊郭で酒を飲み、騒ぎ、笑い、悦ぶ時間を高く評価して、家に帰って算盤をはじき帳面に記したりすることは低く評価し、そう母親に言う態度が、傍若無人に管を巻いて、横に寝て、「おお気が狂った、気が狂った、気が狂った」と自らの狂気を認めている。同じような違和感が松村と話すときにも起きる。母親に勘当されて乞食同然の暮らしをするようになり、かつての知人が知らぬふりをしているときに松山に会えて、二人で話をするときでも、松山は深い愛に基づいた話をするのであれが、久兵衛のせりふはポイントからずれている。そのため松山は久兵衛がいうのはよもや本気ではなく、半分は戯れで言う、といって、久兵衛がまともではないと批判する。この部分は、久兵衛が家族である母親や、将来の妻・お葉となる松山との間に、精神疾患の妥当性をめぐって誤解が生じ続けていく重要な部分である。精神疾患の処遇に関して、家族や世帯で問題を処理することが中核であったことを示している。