塚田, 孝. (2017). 大坂民衆の近世史 : 老いと病・生業・下層社会, 筑摩書房.
江戸時代後半においては、孝子褒賞や忠孝褒賞などと呼ばれていた儒教の制度があり、実際には全国各地で下層の人々に褒賞を与えた制度があった。柳谷慶子『近世の女性相続と介護』(2007) や塚田孝『大阪民衆の近世史』(2017)などが、これらの事例を利用して議論している。塚田の書物が非常に優れていたので、メモをしておく。
徳川時代には儒教が重視されており、儒教の倫理によって人々の優れた行為を褒賞することが18世紀の末に実施された。1780年代の飢饉に対する政策として、松平定信が寛政改革で全国の人々の優れた行為を褒賞する仕組みを明確にし、その後も褒賞記録を編集し出版することが行われ、大阪では幕末から明治初期にも継続した。
18世紀末から19世紀半ばの大阪の人口は約30万人であり、そこを統治するための町は620ほどあった。そこに住む下層の個人を孝子として褒賞する仕組みは、大阪と大阪の町、あるいは江戸と大阪と大阪の町などが関与した。ことに親が病気となったときに、その子供が孝行を尽くすことがよくあるパターンになった。疾病をあえて分類すると、眼病の事例が48 件で最も多く、中風が14件、癇病や気むらなどの精神疾患にあたるものが14件である、そこに、ろうあが2件、脹膜、湿病、眩暈病、コレラが1件ある。より面白いのが、親の性別である。これは圧倒的に女性の親に対する孝行が褒賞されることが多く、母親が59人、父が10人、祖母が22人、祖父が2人という数値が鮮明に示している。これは、女性のほうが寿命が長いという指摘もしているが、それよりも、一家の生計を支える父の死が一家を過酷な状況に置き、だから母を介護することが孝行として褒賞されるという理屈が説得力がある。「夜番に出ている時も、時々帰って母に薬を飲ませ、母くにが寝たままで排便するので汚した衣類を毎晩近くの川に持っていき洗うなど、けなげに介抱した」という記述もあるという。
精神疾患でいうと、1813年(文化10年)に越後屋助右ヱ門の倅の平蔵が褒賞されたのは、次のような行為に対してであった。助右ヱ門は古道具屋を行っており、女房いそは10年前に女性の赤ん坊を出産した後に乱気した。おそらく精神疾患があったということだろう。7年前にもう一人の女子供を出産したのちには乱気が悪化した。助右ヱ門は商売向けで忙しく世話が行き届かなかったため、10才の頃から平蔵が乱気の母のケアと妹たちの世話もしていたという。
下層の社会においては、容易に破片化(個人化)する傾向を持つ「家族」と、それらを奉公で包摂し、本家ー別家関係に編成していく「家」。これが徳川時代の都市社会であったという記述もとてもよかった。このような体制から推定できる構造を近代郊外の東京の精神病院の利用に生かしてみよう。
ちなみに、疾病件数でいうと、柳谷慶子「近世家族における扶養と介護―「仙台孝義録」の分析から―」渡辺信夫編『近世日本の民衆文化と政治』(東京:河出書房新社、1992)、119-140. は割と似ている。これは仙台のデータで、盲目が50件、中風が49件、ハンセン病が8件、狂疾は1件であった。これが全国的に収集されているのだから、Welfare Epidemiology in the Tokugawa Period ができるじゃないか! 江戸時代の本を本気で読める能力をつける鮮明な動機が生まれたじゃないか!(一人で興奮 笑)
なお、同じ書物を「医学史と社会の対話」で藤本大士君が書評しています。ご覧くださいませ!