3月の歌舞伎座では「傾城反魂香」が上演される。
「反魂」というのは日本国語大辞典によると「死者の魂を呼び返すこと。死んだ人をよみがえらせること。」
*発心集〔1216頃か〕五・伊家并妾頓死往生事「李夫人はわづかに反魂(ハンゴン)のけぶりにのみあらはれたり」
*撰集抄〔1250頃〕五・一五「死人の骨をとり集めて〈略〉反魂(はんごん)の秘術を行ひ侍りき」
*柳北詩鈔〔1894〕三・写真鏡「返魂誰道有仙丹、巧写其真小鏡団」
これは吃又(どもまた)「傾城反魂香」という項目で『歌舞伎手帖』で取り上げられている。絵師の弟子の又平が、口が不自由であったために、師の土佐将藍(とさのしょうげん)から土佐の苗字を貰えなかった。それを嘆き悲しんで自殺を試み、今生の思い出に自画像を描いた。それが不思議な奇跡のような自画像となり、将藍は土佐の苗字を許した。この部分が「反魂」である。言葉が不自由で、なおかつ下賤な田夫野人である又平が、心魂を込め死を書けた奇蹟によって、階級を超え、身体の障害を越えるドラマであるとのこと。
この「反魂」に「香」となって、薬のようになっている部分が、私には難しいところである。たぶん、17世紀末から始まった越中富山の薬「反魂丹」と関係がある。1683年に藩主の前田正甫(?)の家臣が癪の発作で、備前の医師の万代常閑に診察を仰ぎ、そこで輸入された薬「反魂丹」を処方された。これが非常によく効いた。家臣は藩主に勧め、藩主が試しても効果があった。常閑を富山藩に招き、そこで生産させた。この後、1690年に重要な事件が江戸城で起きる。秋田河内守が腹痛で七転八倒しているところに、正甫が反魂丹を上げると、劇的に苦痛が去った。ここから「反魂丹」という言葉が広く知られるようになった。その後、富山の売薬が成立する。