このアンソロジーが採った、1925年の芥川龍之介の「馬の脚」という短編が、非常に優れていてとても面白い。主人公は三菱商事で北京に駐在する社員。彼が一度死んで復活するという奇妙な経験である。その時に、中国と日本の官僚事務主義のために、彼の脚の代わりに馬の脚をつけて、この世に返す。そしてそれを隠していて、でもさまざまな苦労を記した日記などが組み合わされている。その中で、彼がとうとう馬になって姿を消してしまうという不思議な現象が起きる。この動物化は、爆発的にやってきて、ある日に、北京の会社と家庭の妻の空間から走り出して、彼は本当に消えてしまう。これに関し、「順天時報」という北京発行の日本人向け新聞の記者は、この失踪は主人公が発狂したせいで、馬の脚のせいではないと解釈する。そして、発狂するということを、家族主義を主人が裏切り、国体を裏切る行為であるとして責めるという流れである。
たまたま「青空文庫」も原文を採用しているので、その部分をメモしておく。
「三菱社員忍野半三郎氏は昨夕五時十五分、突然発狂したるが如く、常子夫人の止むるを聴きかず、単身いずこにか失踪したり。同仁病院長山井博士の説によれば、忍野氏は昨夏脳溢血を患い、三日間人事不省なりしより、爾来多少精神に異常を呈せるものならんと言う。また常子夫人の発見したる忍野氏の日記に徴するも、氏は常に奇怪なる恐迫観念を有したるが如し。然れども吾人の問わんと欲するは忍野氏の病名如何にあらず。常子夫人の夫たる忍野氏の責任如何にあり。
「それわが金甌無欠(きんおうむけつ)の国体は家族主義の上に立つものなり。家族主義の上に立つものとせば、一家の主人たる責任のいかに重大なるかは問うを待たず。この一家の主人にして妄に発狂する権利ありや否や? 吾人はかかる疑問の前に断乎として否と答うるものなり。試みに天下の夫にして発狂する権利を得たりとせよ。彼等はことごとく家族を後に、あるいは道塗に行吟し、あるいは山沢に逍遥し、あるいはまた精神病院裡りに飽食暖衣するの幸福を得べし。然れども世界に誇るべき二千年来の家族主義は土崩瓦解するを免れざるなり。語に曰、其罪を悪んで其人を悪まずと。吾人は素より忍野氏に酷ならんとするものにあらざるなり。然れども軽忽に発狂したる罪は鼓を鳴らして責めざるべからず。否、忍野氏の罪のみならんや。発狂禁止令を等閑に附せる歴代政府の失政をも天に替かわって責めざるべからず。」