ペニシリンは世界で最初に作られた抗生物質であり、20世紀後半の医療を大きく変えた物質である。抗生物質は、英語では antibiotics と呼ばれている。微生物が作り出して、疾病の原因となる微生物の発育を阻害する物質である。それよりも少し前から発展していた化学療法とは原理が異なるから注意すること。
抗生物質は、時代的には、20世紀の第二四半期に劇的に発展した。その後は、抗生物質に抵抗する能力を獲得した「耐性菌」と呼ばれる細菌が進化で作り出されて、現代医学の状況が複雑になっている。しかし、抗生物質が医療と健康に与えたインパクトは非常に大きい。私ももっと勉強しなくては。
1928年にはアレクサンダー・フレミングがロンドンの病院で、1940年にはオクスフォードの科学者チームが実験室で、そして1942年にはオクスフォードからアメリカを訪れた科学者たちが多くの製薬会社の効率的な大量生産を可能にした。日本においても、1944年か45年に三島にペニシリンの生産工場が作られた。これは、1910年代からはじまる、梅毒に対するサルヴァルサンや、強心作用を持つビオカンファー(樟脳)にせよ、日本が得意なジェネリック作成の道であった。しかし、これはアジア太平洋戦争の最終的な末期の状況であり、私が読んだ文献ではまた未熟な段階で敗戦を迎えている。
話をオクスフォードに戻すと、ペニシリンを最初に与えられた人間は、オクスフォードの巡査であるアルバート・アレクサンダーであった。アレクサンダー巡査は、彼が住んでいたオクスフォードの警察の宿舎で、庭に植えられた美しいバラの手入れをしていたが、その時にバラの棘が顔に刺さり、悪性化してオクスフォードの病院に入った。そこで、ペニシリンを与えられた。非常によく効いたが、それを量産する仕組みなどが発達していなかったため、最終的に死亡してしまった。それからアメリカに行って大量生産ができるという事件が起きている。バラの手入れで死亡したイギリスの巡査というストーリーは、たしかに面白い。
しかし、実はこのエピソードが偽の話であるというヴァージョンを読んだ。彼の娘がアメリカに移住してまだ生きているが、彼女によると、彼の怪我はバラの手入れではなく、ナチス・ドイツの爆撃に対する警察による防衛に際して負った怪我であるとのこと。これはサザンプトンへの爆撃に対抗する防衛だったという。このストーリーは、ドイツのジャーナリストが訪問した折に出してきた話であるとのこと。正直言って、どちらが正しいのかよく分からない。