1933年の2月から3月にかけて、井伏は巣鴨の病院に隔離された。(おそらく駒込病院であろうが、これは調べなくてはならない)しょう紅熱ではないかという恐れである。風邪気味なので医者に見てもらってしょう紅熱かもしれないと言われ、家には子供もいたし、妻が薬局で薬を調剤してもらって家庭医学の赤本を見て入院させることにした。最終的にはしょう紅熱ではなかったが、そこで最初に一時的な妄想を見る。
「寝床に仰向けになると、天井が素通しのガラス板で、その上が二回の部屋ー図書館のカタログ室のようにケースが並び、一人の洋装の女がカードを繰っている光景が見える。天井が素通しだから、その女性を真下から逆さまに見ることにある。女の履いている靴も真裏から見える。靴は新式のハイヒールだから、動きも軽々としてすっきりした感じである。
カタログを繰る女性は、ヒトラー総統の女秘書だとわかった。真下から見るので美人かどうかわからないが、脇目も振らず一新に指先を動かしている。その繰り続けている動きがふと途切れ、カタログの抽出から一枚のカードが床に落ちた。それを真下から見るわけだ。人名簿か処方箋かであったろう」