ヤング『PTSDの医療人類学』

アラン・ヤング『PTSDの医療人類学』中井久夫・大月康義・下地明友・辰野剛・内藤あかね共訳(東京:みすず書房、2001); Young, Allan, The Harmony of Illusions: Inventing Post-Traumatic Stress Disorder (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1995)
必要があって、アラン・ヤングのPTSDの医療人類学の研究書を読む。原著が1995年、翻訳が2001年と、専門書のわりにはスピード感がある翻訳だった理由は、やはり訳者の一人である中井久夫の力もあって、阪神淡路の大震災の後にPTSD概念が日本でも定着したせいであろう。学生に翻訳を配った後で英語をチェックしたけれども、どうしても日本語訳だと原文の雰囲気がつかめない。複雑な問題だと思うけれども、一つの理由は、英語の学術的な文章における文体の変化に、日本語の学術的な文章の文体がついていっていないことなのかなと思う。ヤングの書物を英語で口に出して読んでみると、読むにつれて論理の要素が小気味よく現れて展開していくのがよく分かるけれども、それを訳した日本語には、「時系列の上で展開する議論」の感覚がなくなり、重要なフレーズを平面上から探して論理を組み合わせる感じになる。私が翻訳したときには、それを避けるために、口頭で読みながら訳文を作ったけれども、少しは分かりやすくなったかしら。

ヤングの書物のポイントはそんなことではなくて(笑)、苦痛の記憶の新しい型の誕生の話である。近現代には新しい型の苦痛の記憶がもたらされた。これは外傷性という発生源を持ち、抑圧と解離につながっている。この最も有名なものがPTSDという疾患と関連した場合である。この記憶は古代からあると主張する学者もいるが、ヤングのこの書物での重要な議論は、これは近現代に特徴的なものであるという。その理由の一つが、近現代に自我の概念の中核に「記憶」が位置するようになったということである。キリスト教の人格概念を対照させると、人格概念において重要なのは不滅の霊魂である。個々人が自身について持つ人格概念・周囲がある個人に期待する人格概念において、その不滅の霊魂が最後の審判の日にどうなるかが重要である。そこでは記憶は副次的な役割しか果たさない。しかし、近現代においては、ロックの自己同一性の概念が示すように、記憶が自己の中心となる。自分の人生で起きた事件を憶えていることが、自己を作るようになる。PTSDの苦痛の記憶は、霊魂不滅にかわって記憶が自己の中心になったという近現代の大事件と深く結びついている。(ちなみに、キリスト教の霊魂不滅概念を対照させたのはヤングその人ではなく、ハッキングの議論を組み合わせた私のまとめですから、ご注意ください)

19世紀になると、記憶概念は拡張され、行為と身体状態(自動症やヒステリー性痙攣)を含むことになる。これは、記憶が当人にはそれと意識されることなく、隠匿や遮蔽されて存在している新しい考えである。その記憶は専門家の助けによって明らかにされて、病気や障害が治療される過程に位置づけられる。精神医学と心理学は、近現代の個人の人格の中枢である記憶に関与する学問であり医療になる。

この記憶と自己の概念の中で神経症を捉えるモデルはもちろん素晴らしいが、基本的なアンバランスの問題もつきまとう。17世紀末から21世紀までの300年間についての大きな変動を背景にしたうえで、実際に吟味するのはPTSD系の神経症に関する議論となる。ヒストリオグラフィの装置としては、数世紀単位の最も大がかりな装置の上で、小さな精密機械が動くのを示すことになり、大がかりな装置の力が良く見えずに、補償の問題や近代兵器の問題などの、重要だけれどもより小さな問題が前面に出てくる印象を持つ。