akihitosuzuki's diary

帰ってきました(笑)

ヤコブセン「ベルガモの黒死病(ペスト)」を読む

土曜日の朝にヤコブセンの「ベルガモの黒死病(ペスト)」を読む。

 

土曜日の朝はソファで本を読んだりする時間があることが多い。平日は朝の7時に研究室に入るが、週末は時間があるので、朝に一般向けの本を読む。今朝は、ちくま哲学の森(全8巻・別巻1)の第3巻である『悪の哲学』に掲載されていた短編である。

 

ブログをつけるようになったのは20年以上前で、私はまだ40代の初めだった。そのころは、知らなかったことを書くのに「本当に無知だが」というようなセリフをつけることにしていた。60代に入って再び繰り返すのは恥ずかしいが、ヤコブセンという19世紀末の小説家も、「ベルガモの黒死病」という短編小説も、まったく知らなかった。著者はイェンス・ペーター・ヤコブセン(Jens Peter Jacobsen, 1847–1885)で、デンマークの植物学者であり小説家でもある。ダーウィンの『種の起源』を翻訳したとのこと。また、結核を患い、小説『ニールス・リューネ』(1880) では無神論や個人の内面の苦しみなどが描かれているとのこと。日本語訳の全集が出ているので借りてみた。

 

「ベルガモの黒死病」は病んだ個人とはとても違う。ベルガモという都市全体が、ペストとともに崩壊していく過程が描かれている。都市の人々は、宗教を捨て、無法地帯にあり、酒を飲み、酔っぱらいの方向をして、狂乱状態になり、妖術・魔法・悪魔を信じるようになり、卑猥な歌を唄いながら偽のミサをあげる。よそからきた別の人々は、血まみれになって狂乱していく。読みながら、無秩序で、膨大な死者が現われ、その世界の人々が黒い快楽を感じるような文章である。

 

もちろんそんな史実はないと教えているし、有名なボッカチオの『デカメロン』の第一日の冒頭を読んでみて、当時のフィレンツェの悲惨な死の世界だが、このような徹底的な破壊ではない。でも、19世紀末の人々が持ったイメージとして、中世の黒死病を徹底した否定のフレイムワークで見る形であったことは確かだろうなと思う。あるいは、後期中世から、ペストと悪魔が支配した世界という別筋の見方もあった。

 

ブリューゲル『死の勝利』。だいぶ前にプラド美術館で観ました。

 

 

 

1820年の中国におけるコレラの記事を読む

Kerrie L. MacPherson, Cholera in China, 1820-1930, Mark Elvin and Liu Ts'ui-jung eds,m Sediment of Time: environment and society in Chinese history, 1998, 487-519 を読む。

 

1817年にインドのカルカッタから世界各地に送られたコレラは、翌年には、インドの沿岸部、内陸部、ボンベイなどの重要な港に広がっていく。その後、インドネシア、ビルマ、タイ、ベトナム、フィリピンなどに広がる。おそらく、これらの地域から、1820年に中国の南方にある広東に到達する。これは、現在の香港に面するような場所にあり、18世紀・19世紀には、外交上の重要さも持っている都市であり港であった。清帝国が、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国が中国との貿易に携わる時には、広東以外の港を禁じるという仕組みで、英語では the Canton system というものを作っていた。これは1842年8月に第一次アヘン戦争が終結して、後の南京条約で五つの港が開港されるまで継続した。

 

そこに入ってから、コレラは中国国内に非常に早く広がっていく。厦門・厦門・上海というように北上する。中央の沿岸部と揚子江(長江)沿岸、大運河沿いに北方に広がった。そこから満州にも到達し、おそらく、満州から鴨緑江 (Yalu River)を超えて朝鮮の北部に入っていく。

 

一つ面白い事実。この論文における中国国内の広がりを最初に特定したのは日本人研究者である。井村哮全 (?-1941) という東大卒の医師で、上海自然科学研究所の研究員であり、後に厚生省の官僚となって保健所を推進しようという論文を書いている。彼の中国の感染症の研究は中外医事新報に掲載されている。観ておこう。

 

1830年代の広東

論文が示すコレラの北上

 

1821年における朝鮮のコレラ

Shin Kwon Kim, "The Religious Dimensions of Epidemic Disease: Cholera, the Ghost Rite, and Missionary Medicine in Nineteenth-Century Korea", Journal of the History of Medicine and Allied Sciences 2025 Vol. 80 Issue 3 Pages 224-245. を読む。

 

学会で報告するために朝鮮の李氏朝鮮の時代のコレラについて調べている。朝鮮語ができればもっと正確を期することができるが、最近は朝鮮語と英語の二つの言語の能力があり、英語で論文を書くことができる人が増えてきたので、それらに頼っている。

 

学会報告の重要なポイントは、コレラの流行の筋道である。コレラはおそらくインドからいくつかの港を経て1820年に広東に侵入した。広東は中国が持つヨーロッパ・アメリカなどとの唯一の港であり、そこから中国の各地に広がっていった。これは明日書く。

 

そこから、コレラは、中国と朝鮮の国境にある鴨緑江 (Yalu River)という最も重要な川から朝鮮に侵入し、1821年の8月13日に平壌と安州が膨大な死亡者が出る。そこから、ソウルに侵入し、朝鮮各地に広がる。その中で、慶尚堂の内陸の中心都市の大邱(テグ/Daegu)と重要な港湾都市の釜山 (プサン/Busan) に到達する。釜山に存在した朝鮮と日本との橋は対馬藩であり、1822年に対馬藩がコレラを運び、山口か長崎から侵入し、主に西側の日本に広まった。

 

それ以外のこともメモ。

 

コレラに対して、朝鮮は宗教を用いたのに対し、中国や日本では医師たちは霍乱が古代中国医学の疾病だろうかと想像したという面白い違いがある。 もちろん日本でも民俗宗教はあり、コレラに対して登場する。このことは高橋敏『幕末狂乱(オルギー): コレラがやって来た!』(東京:朝日新聞社、2005) にも書いてある。私の出身地に近い富士宮のあたりで登場している。

 

李氏朝鮮時代の医学にはいくつかの特徴がある。1880年代に作られたアメリカ起原の宣教医学の成功もその一つで、ソウルに宣教医学病院が作られ、現在は延世大学 (Yonsei University) となっている。これは西洋医学をモデルに、朝鮮における医療を大きく変える方法である。朝鮮医学の事情はほとんど知らないが、宣教医学と病院は朝鮮に大きな影響を与えただろうと予想している。 もちろん西洋型の医学と病院は非常に重要である。

 

しかし、19世紀の前半を見ると、感染症が爆発的に流行したときに、李氏朝鮮は ghost rite の手法を用いた。これは、朝鮮語でいうと yeoje で、おそらく中国語・日本語では「厲祭」と言われる霊の利用である。疫病の流行などの折に使うとのこと。李氏朝鮮では政府がこの手法を用いたという。 一つの理由は、韓国の医師たちが、このタイプの疾病を見たことがなく、それに対応するために、薬物よりも宗教を中心においた儀礼を行ったからである。もちろん日本でコレラが侵入した時に宗教や民俗宗教は盛んに用いられている。どう考えたらよいのだろうか。

 

図版はNLMが20世紀に出した中国の医学的なポスターで、そこでも「霍乱」という言葉が使われている。あと2点は、日本でコレラに関する医者のアドヴァイスと背景に妖怪が同居しているポスターである。1877年に用いられている。くすり博物館収蔵資料集4『はやり病の錦絵』(2001) に所蔵されている。

 

https://circulatingnow.nlm.nih.gov/2020/07/09/prevention-posters-push-the-message/cholera/

 

 

 

第二次大戦直後のアメリカによるエキリ研究

二至村菁『エキリ物語 GHQと 日本の医師たち』(東京:中央公論社、1996)をもう一度読む。

 

『エキリ物語』という中公新書があり、GHQが日本を占領する状態になったときに、アメリカから来た4人の研究者が、日本の研究者たち、そして日本の患者の家族たちと協力し対立しながら、どのように「エキリ」(疫痢)を研究したありさまが、生き生きと描かれている。医学史の研究者をしている若い学生たちは必ず読むように。

 

そこには、アメリカの研究者たちがアメリカの内部で形成した政治と人脈の状況、日本の医学研究者であり、駒込病院という最初の避病院で現在も仕事をしているエリート医師たちがどうやってアメリカと協力して仕事をするありさまが描かれている。また、駒込病院で、男の女の二人の小児たちが死んでしまうときに、医師たちはもちろん死後の病理解剖をしたいのだが、二つの家族たちが、それを受け入れるありさま、それを拒否するありさまをする光景が描かれている。また、それにアメリカの研究者たちの対応の違いも描かれている。

 

駒込病院の図版を二つ。一つは昭和六年に新築された駒沢病院の写真で、なかなか立派だなあと思う。もう一つは磯貝元『明治の避病院 : 駒込病院医局日誌抄』(京都:思文閣、1999) からの図版である。一つ不思議なことは、上の建築図では「五舎」という一般人の病棟の向こうに屍室(霊安室)があると書かれているが、下のおそらく増築したものでみると、「特等室」が屍室と焼却場に囲まれているような状況である。何があったのだろうか?

昭和6年の新築駒沢病院

中谷陽二先生から『ミシェル・フーコーと狂気のゆくえ―我狂う、ゆえに我あり』を頂きました!

数十年間もお付き合いしている精神医学者の中谷陽二先生から『ミシェル・フーコーと狂気のゆくえ―我狂う、ゆえに我あり』という書物を頂きました!ありがとうございます!

私個人の話ですが、学者としておそらく最後の学術的単著を英語で書きはじめました。日本の王子脳病院という東京の精神病院の歴史です。精神医の歴史、患者の歴史、家族の歴史、社会の歴史、警察の歴史、そして第二次世界大戦の歴史の中に組み込むものです。その中で、おそらく何十回もフーコーを読むと思います。中谷先生の書物が大きな導きになると思います。

 

 

非常に優れた19世紀末から20世紀後半までの薬学の歴史の書物

今週の金曜日の医療史の歴史は Pharmacology の近現代史。そこで使う枠組みの一つが M. Weatherall, In Search of a Cure: A History of Pharmaceutical Discovery (Oxford: Oxford University Press, 1990). 大学院生向けの概論なので、英語で講義するのは多少難しいが、非常に深く的確である。ことに、植物の名前、学名、化学名、臨床や公衆衛生の領域での説明を英語で行うのは、かなりエネルギーを使う。でも、この書物の説明の仕方は素晴らしく、これで説明することにする。

この書物では一段落くらいしか説明されていないが、Waldemar Haffkine (1860-1930) という細菌学者がいて、彼が抗菌剤の1880年代に登場する。もともとウクライナオデッサ出身のユダヤ人で、ロシアによる苛烈な差別をのがれてフランスはパリのパストゥール研究所にやってきた。似たような半分ユダヤ人という経歴の Elie Metchnikoff も同じようにパストゥール研究所にやってきた。そこからコレラとペストが大流行しているインドに行き、血清療法を二つの病気に関して開発をする。一方で、ドイツでは、19世紀には化学企業が発展して、1890年代にはジフテリアベーリングや北里とともに開発される。

もう一つ右の列であるtransmitter、あるいは neurotransmitter では、クラーレやニコチンが開発されるとのこと、1900年代、1910年代にイギリスの製薬産業が発展するなかで発展したことなどが書かれている。

 

古代から1800年までの薬物の一覧

1800年代から1870年代までの化学的な塩基性物質の発見

1880年代の薬学の六つの分類の中での発見

 

Jackson, Harmonious Triads and Digby, Madness, Morality and Medicine

12月13日に慶應三田で科研の研究会があり、そこで旧世代の学者たちと比較的若い世代の学者たちが集まり、発表をしてディスカッションをするというミーティングがあった。とても楽しい時間だった。そこで私が言及した二つの研究書に触れておく。

 

一つが Myles W. Jackson, Harmonious Triads:  physicists, musicians, and instrument makers in nineteenth-century Germany (Cambridge, MA.: MIT Press, 2006) である。これは19世紀のドイツの物理学研究者たちが実験室 laboratory で実験 experiment を行い、音楽を科学的に分析し、それが音楽者や楽器製作者たちと協力する基盤を作ったという書物である。物理学研究者と書いたのは、生理学者や心理学者としても著名なヘルムホルツ Herman von Helmholtz (1821-1894) も含まれていて、彼は人間の身体や精神についての学問に数学を取り込んだことでも知られているからである。面白いエピソードとしては、パガニーニやリストといった作曲者・演奏家たちが、驚異の機械のような楽曲を演奏したことである。ラボラトリーと実験と19世紀の音楽が結びついていることを教えてくれる。

 

もう一つが Anne Digby, Madness, Morality and Medicine: A Study of the York Retreat 1796-1914 (Cambridge: Cambridge University Press, 1985) である。これは、新しい医学史の古典である。そこでは、記憶し直すこととして二点。クエイカーという宗教団体が、社会において虐待されている奴隷を解放しようという流れと同じ中で、ホスピタルで虐待されている狂人を人間的に扱う The Retreat という名の組織を作ったこと。また、1830年代から40年代にかけて、宗教組織から医学組織という性格が強くなったことである。

 

なぜ久しぶりにこんなことをしたのか、簡単に説明しておく。以前に私は毎晩このような日記を書くことを日課にしていた。数年間に関しては、一年に365点前後のまとめを書くことができた。それらが記録してあるから、少なくとも何を読んだかということは残っている。そのようなことをしていましたねと、若い研究者に言われて、少し嬉しかったこともあって、メモを書いておいた。これを書くのに45分くらいかかった。もう一度、やってみようかなと思った。