Call for Papers for EASTS journal on Life, Science and Power in History in East Asia

雑誌 EASTS が、医学・生命科学の歴史と思想と社会の特集号を企画しています。特集号のエディターは、今年の4月から立教大学の教員となった高林陽展先生。9月30日締め切りと多少きつい日程ですが、ぜひご投稿ください。 

雑誌については、以下のサイトをご覧ください。

www.dukeupress.edu

 

 

Life, Science and Power in History
Call for papers for a special issue of the EASTS Journal

Deadline for submissions: September 30, 2017

In the twenty-first century, East Asian societies encounter diverse predicaments in terms of modern science, technologies, and medicine. Since the late twentieth century, organ transplantation, genome research and euthanasia have been argued widely in the politics, society, and culture of countries in East Asia. The research environment around science and technology became more competitive, which sometime caused manipulation of, or fabrication of, experimental results. In 2011 Japan experienced a series of breakdown of nuclear power plants in Fukushima, in which extensive parts of east Japan struggle with radioactive contamination. All these situations urge us to reconsider our belief in, and ethics of, life, science and power. It is certainly necessary that science and technology studies and medical humanities consider this topic.

This special issue “Life, Science and Power in History and Philosophy” is to re-construct, extend, and develop the humanities perspectives to understand medicine in East Asia. In so doing, it promotes further development of interdisciplinary studies of science, technology and medicine from the viewpoints of humanities. Papers will examine modern medicine in East Asia from for perspectives, namely, 1) philosophical dimensions, 2) cultural dimensions, 3)social dimensions, 4) epistemological dimensions.

Among the questions that papers might explore are:

* What, if any, are the unique features related to the issue of “life, science and power” in East Asia?
* Are recent incidents related to the issue of “life, science and power” in East Asia?
* How has the political, economic, social, philosophical and cultural environment in East Asia contributed to the issue of “life, science and power” in this region?
* How have we thought of biopolitics and biopower oriented by Michel Foucault in East Asia?
* How have the scientific community, research institutes, and the state responded to the issue of “life, science and power” in East Asia?
We welcome papers from a range of disciplines, including STS, sociology, history, and anthropology.

Papers should be between 8,000 and 12,000 words including reference and other text, clearly addressing the theme and focus of the subject issue. Please submit your paper to BOTH of the following e-mails: eastsjournal@gmail.com AND atakabayashi@rikkyo.ac.jp. Please indicate in the email title that your submission is for the Life, Science and Power in History special issue.

For inquiries concerning the themes of this issue, please contact Dr. Akinobu Takabayashi at atakabayashi@rikkyo.ac.jp. For other editorial inquiries, please contact Ms. Yen Ke at eastsjournal@gmail.com.

East Asian Science, Technology and Society (EASTS) is an interdisciplinary quarterly journal based in Taiwan and co-edited by editorial boards in Taiwan, Japan, South Korea, and the West. For more about the journal:

イギリス人名辞典のイェーガー博士

Oxford DNB: Lives of the week

 
今日のDNBは、19世紀の末に活躍した医師・動物学者・人類学者の グスタフ・イェーガー(Gustav Jaeger, 1832-1917) 。現在でもセーターなどで人気がある「イェーガー」の創設と関係がある学者である。
 
動物の体毛を使った洋服のアイデアは、1880年に出版された『私の体系』に現れた。議論は、少なくともこの DNBの記述では、よくわからないけったいなものである。動物は人間より健康で長生きであり、動物の体毛は地球上で生きる大きな助けであり、綿や麻などの植物系繊維の服や、絹の服よりも、ずっと体によい。だから、動物の毛の服を着たら、病弱だったイェーガーが見違えるように健康になった。この説に世界各地で共感する人々が現れ、ロンドンで共感した人物がそのような服を売り出す支店を出し、1890年代にはリージェント・ストリートに二号店が現れた。多くの有名人がこの説に共感した。オスカー・ワイルドウィリアム・モリスが動物体毛の服を着た。特に名を成したのがG.B. ショーで、けったいな服を来て講演したりして愉快な悪名となったらしい。 
 
もう一つ、これは余分な話だが、新しいDNBに人名が掲載される基準について。 詳しいことは知らないが、イギリス生まれとか、イギリスで活躍とか、そのような基準よりも広く取られていると思う。今回のイェーガーは、イギリスに定住して活躍したことは一度もない、ほぼ生粋のドイツ人である。しかし、彼の「遺産」として最も重要な服飾店「イェーガー」(英語読みで「ジェイガー」と読むのが「本来の」読み方らしい)がイギリスの店だから、イギリス人名辞典に掲載されたということなのだろうか。乱用するとおかしなことになるけれども、これはこれでOK.  ただ、記述の中心はイェーガーの服を着たイギリス人たちの話である。

ミカド

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www.biwako-hall.or.jp

 

8月に東京の新国立劇場で「ミカド」の公演。「ミカド」 Mikado は、1885年に初演されたコミック・オペラである。19世紀末のロンドンで公演されていた「コミック・オペラ」「サヴォイ・オペラ」と呼ばれるジャンルの作品の中で、一番の成功作であろう。作品の内容の基本は、舞台を日本に設定して、当時のイギリスの政治を風刺するものであるとのこと。私は一度も観たことがなくて、イギリスで時々触れたコミック・オペラを観てみたいし、舞台が日本というのも興味ある。もちろん、ヴィクトリア時代のイギリス人がかなり勝手に想像した日本であって、色々なところで笑ってしまうだろうが、それを観てみたい。また、原作はもちろん英語だが、喜劇のオペラを英語を聴いて本当に笑うことができるかは、私にとっては大きな問題である。たぶんダメだと思う。しかし、今回の上演は、日本語に訳して日本人歌手が歌うという企画であるとのこと。もちろん原作とはかなり違う作品だけれども、これはこれで、どういうものかという興味がある。観ることができるといいのだけれども。

インドとイギリスの女性と医学について

DNBの「今日の人物」は19世紀末から20世紀に活躍した女性医師、メアリ・アン・デイコム・シャーリープ(旧姓バート)。1845年に生まれ、1930年に没する。ロンドンで法律を学んでいたウィリアム・メイソン・シャーリープに会い、結婚してインドに行く。そこで、インドの妊娠した女性は、ヒンドゥー教でもイスラム教でも、ヨーロッパ人の男性の医師にかかることができないことを学び、それなら女性が医者になればいいと決心して医学を学びはじめる。当初は、マドラス助産師になろうとしたが、規則が病院に女性が宿泊することを許さないため、1874年にマドラスの医学校、そしてロンドンの医学校で学び始める。それからやく10年間にわたって、イギリスとドイツで産科学を中心に学び、医師資格を取得して各地で大いに学ぶ。1880年代にインドに帰って病院の医師になった。私的開業もしており、年に2,000ポンドは稼いだというから、かなりの所得を稼ぎしたことになる。ちょっと計算すると、4000万円くらいになる。1880年代の後半にロンドンに帰り、私的・公的に活躍する。20世紀にはいるとさまざまな公的な委員会などにも入る。しかし、考え方が古臭いと人気がなくなっていたこともあるという。

インドで妊娠した女性が、産褥期などの疾病などに関して、ヨーロッパ人の男性の医者にかかることができないというルールがよくわからない。インド系の男性の医師だといいのだろうか。また、ヨーロッパ人でも女性の医師だと、sisterhood でいいということだろうか。

 

Oxford DNB: Lives of the week

ブラジルのハンセン病 雑誌特集号 

  

* Robertson, Jo. "Leprosy and the Elusive M. Leprae: Colonial and Imperial Medical Exchanges in the Nineteenth Century." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 13-40.
* Oliveira, Maria Leide Wand-del-Rey de, Carla Maria Mendes, Rachel Tebaldi Tardin, Mônica Duarte Cunha, and Angela Arruda. "Social Representation of Hansen's Disease Thirty Years after the Term 'Leprosy' Was Replaced in Brazil." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 41-48.
* Benchimol, Jaime L., and Magali Romero Sá. "Adolpho Lutz and Controversies over the Transmission of Leprosy by Mosquitoes." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 49-93.
* Monteiro, Yara Nogueira. "Prophylaxis and Exclusion: Compulsory Isolation of Hansen's Disease Patients in São Paulo." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 95-121.
* White, Cassandra. "Carville and Curupaiti: Experiences of Confinement and Community." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 123-41.
* Hunter Smith III, Thomas. "A Monument to Lazarus: The Leprosy Hospital of Rio De Janeiro." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 143-60.
* Pandya, Shubhada S. "The First International Leprosy Conference, Berlin, 1897: The Politics of Segregation." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 161-77.
* Joseph, D. George. ""Essentially Christian, Eminently Philanthropic": The Mission to Lepers in British India." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 247-75.
* Cueto, Marcos, and José Carlos de la Puente. "Vida De Leprosa: The Testimony of a Woman Living with Hansen's Disease in the Peruvian Amazon, 1947." História, Ciências, Saúde-Manguinhos 10 (2003): 337-60.


ブラジルのハンセン病の歴史の研究の論文集のアブストラクトに目を通す。本来は少し前に読むはずだったけれども、時間を取ることができなかった。読んでみると面白いし、もっと本格的に知りたいと思う。日本との対比についても、非常に面白そうである。一番面白そうなのは、最後に掲げられている、1947年のアマゾン地域の女性のハンセン病の女性にインタビューの復刻。これは、アブストラクトやイントロダクションは英語であるが、本体はスペイン語で書かれている。英訳とかないのかしら? なお、これらの論文はすべてネット上で公開されている。

http://www.scielo.br/scielo.php?script=sci_issuetoc&pid=0104-597020030004&lng=en&nrm=iso

1997年の推測だと、世界のハンセン病患者は約120万人、一年間に75万人の新患者が出る。
the central structure of a social representation has a historical determination.
ブラジルでは1970年代に呼び方が leprosy から hansen's disease となった。
ハンセン病は蚊を通じて伝染すると死ぬまで信じていた一流の学者 Lutz がいた。
1930年から45年の時期に「サンパウロ・モデル」と呼ばれる患者を全国的に隔離するシステムが完成した。1970年代にここから離脱して、患者を外来とするシステムに移行した。
1897年の第一回の国際ハンセン病会議では、西欧は植民地からハンセン病が帰ってくるというパラノイアを示した。

「異邦人が始める疫病」―19世紀のニュー・オーリンズの黄熱病

ウェルカム・コレクションで、高校生向けくらいの感じの医学史の記事があって、とても参考になる。書いてある内容も面白かったのでメモ。

1853年にニュー・オーリンズで黄熱病の大流行があった。人口は15万人程度だったが、黄熱病の流行で死者だけで1万人が出た。この流行を中心にした記事である。この流行もそうであるが、最初の患者は慈善病院に収容されて死亡したアイルランドから移民してきたばかりの男であった。アイルランドやドイツからの移民がよく黄熱病にかかり、死者の3/4はこの二国からの移民であった。死亡率でいうと、現地で生まれたものの20倍もあった。ニュー・オーリンズでは黄熱病のことを「異邦人の病気」と呼んでいた。ニュー・オーリンズや近隣の地域で生まれて育ったものは、一度は蚊に刺されて黄熱病になっているから、ある種の抵抗力を持っているが、その経験がない移民は蚊に刺されて病原体が侵入すると、すぐに重篤化する。 それに、「ラム酒を飲んだくれて喧嘩ばかりする奴ら」という記述も加わる。異邦人でろくでなし。そのような患者のステレオタイプが形成された。
1万人も死者が出た1853年の流行の重要なポイントは、この時期のニュー・オーリンズは劇的な人口の増大を経験していたことであった。1830年頃には5万人程度であった人口が、1850年には15万人程度という激増であった。その間、一度も黄熱病の流行がなく、新規の移民の感染可能者が蓄積している状況であった。この流行が甚大な被害を与えた背景には、このような状況があった。

 

next.wellcomecollection.org

ハノイのネズミと「コブラ効果」

 

www.atlasobscura.com

 

アトラス・オプスクラの記事「ハノイにおけるネズミ抹殺大作戦」を読んで、面白い部分をメモ。 

フランスが支配していたインドシナの首都はハノイであった。素晴らしい街であったが、非常にネズミが多かった。1897年から1902年まで長官であり、1930年代にフランスの大統領にもなった政治家、ポール・ドゥメール Paul Doumer は、このネズミを一掃する計画を立てた。ここでは特に言及はされていないが、ネズミは当時アジア各地で出ていたペストの重要な原因になるからだろう。下水溝に降りてネズミを殺すベトナム人を雇い、1902年の4月からネズミを殺し始めた。雇人たちが慣れてくるにつれ、殺す数も増え、1902年の6月には一日につき一万匹以上、6月21日には2万匹を超えるネズミが殺された。それにもかかわらず、ネズミは減っているように見えない。そこでフランスの植民地の政府は方針を変え、雇人ではなく、一般の人々の参加をつのった。誰でも、ネズミ1匹につき1セントを支払われる。単価は安いし、私には価格がよくわからないが、市民参加の新しい防疫のネズミ一掃計画である。この市民参加の計画では、ネズミの死骸ではなく、殺したネズミの尻尾を持ち込んで、尻尾一本につき対価が払われる仕組みであった。もちろんたくさんの尻尾がもちこまれた。仕組みとしては、うまくいっているように見えた。

しかし、現実はフランス側の意図とは全く違う方向に進んでいた。しばらくすると、尻尾がいないネズミが見受けられるようになった。あるいは、外国からネズミが導入されて、その尻尾を切って金儲けをする人々がいることもわかった。最後には、ハノイ周辺の農村でネズミが養殖されるようになった。ネズミを養殖して増やし、ネズミ自身は殺さずに、その尻尾だけを切って役所で代価をもらう。こうすれば、ネズミの尻尾で儲けたい放題である。そのため、この計画は放棄され、人々はあきらめてネズミと一緒に暮らすようになった。このネズミが1906年のハノイでのペストに貢献した。250名ほどの死者というから、それほど大きな流行ではなく、それまで数年にわたるネズミとの闘いが貢献しているのかもしれないが、やはりハノイにネズミは住み続けたことになる。

この歴史的な史実は、実は「コブラ効果」であるという議論がある。コブラ効果というのは、インドを植民地支配したイギリス政府が出した法律で、コブラを減らすためにコブラの死体を持ち込めば対価を払う仕組みを導入したところ、人々がコブラの養殖を始めてかえって増えてしまったというエピソードである。そこで、政策立案者の意図ではなく、それと正反対のことが起きてしまう現象が、「コブラ効果」と呼ばれている。しかし、植民地インドでこの事実があったかということは明らかではないため、実際に起きたことが確かな「ネズミ効果」と呼ぶほうがいいのではないかと主張する人もいるとのこと。

 

永島剛・市川智生・飯島渉編『衛生と近代 ペスト流行にみる東アジアの統治・医療・社会』(東京:法政大学出版局、2017) 
Vann, Michael G. "Of Rats, Rice, and Race: The Great Hanoi Rat Massacre, an Episode in French Colonial History." French Colonial History 4 (2003): 191-203.
 

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