戦前期日本の精神医学における自殺論

自分で考えたこと、調べたことを少しまとめてみます。これまでリサーチに直接関係することは書かなかったこのブログでは、新しいジャンルになります。たいしたことは書きませんが、それでも、内容・アイデアともにご利用されるおりには、このブログに一言ご連絡ください。

西洋における自殺という現象は、長いことキリスト教によって大きな罪であるとされ、国家もそれを一つの犯罪行為として扱ってきた。この現象が犯罪でなくなり、世俗化された価値観でとらえられるようになる大きな転換において、大きな役割を果たしたのが精神医学ないしその原型であった。ひらたくいうと、もともと法律に存在した免責事由である精神障害 non compos mentis の概念をつかって、自殺は犯罪ではなく精神病であると唱えることで、自殺を病理の産物とすることで脱犯罪化することができるようになった。この概念は大変粗いものであるが、大枠でいうと事態を正確にとらえている。

それなら日本の精神医学者たちがどのように自殺をとらえたかということを調べる必要があって、少しリサーチをしてまとめてみた。戦前の精神医学者・医学者で、自殺について重要なまとまった仕事は、よく引用されたものでは、東京帝大の法医学者の三田定則が1915年に発表した論文である「自殺論」、それから1930年代から40年代にかけて王子脳病院の小峰茂之が発表した一連の長大なモノグラフ群、同じ時期に香川県の大西病院という代用精神病院の院長であった大西義衛の論文群である。

三田の論文はドイツでの自殺者の病理解剖の研究に基づいて、自殺者は医学的な異常があるという趣旨である。男は脳神経系、女は生殖系に異常があることが多いという。これは、身体の病理が精神を犯した結果、人は精神を病んで自殺をするということを唱え、典型的な自殺の病理化という正統の道を歩んでいる。このような器質的な考えをしなくても、クレッチマーでもフロイトでもいいが、より心理学的な考えをする医者も多かった。こちらも、自殺を病理の産物と考えたことは変わりない。このモデルは、たとえば名古屋帝大教授の杉田直樹のように、インテリの若者が自殺をする哲学的な自殺をトリヴィアライズするのにつかわれたり、警視庁の金子準二のように、台湾の原住民が自殺が多いことを民族医学的に説明したりするのに使われた。いろいろと使い道が多い便利なツールであった。

ところが、小峰や大西の仕事には、明らかに違う次元の議論が入ってくる。それが「自殺の伝統」の問題である。一つは言うまでもなく武士道の切腹の問題、もう一つは情死の問題である。武士道について、小峰も大西もそれを賛美し、これは病理の問題ではないと言っているのは、ある意味で驚くに値しない。しかし、情死についても、両者の態度には、日本の伝統的なうるわしい慣習であると肯定したり、あるいはあいまいな態度を取ることがあるのは少し驚く。この情死の肯定は、最終的には、西欧の個人主義に対抗して、日本は国家なり家族なりに忠実であるということで、個人主義に対して集団主義の優越を論じたいという意図があった。武士道が主君や国家に対する忠実ゆえに病理ではないとしたら、情死も、個人以外のものに対する忠実を表しているがゆえに日本的であるというロジックであろう。

戦前の精神医学者たちは、自殺の病理化のモデルを使う一方で、ある種の自殺に対しては、反個人主義というイデオロギーを優先させて、それらを病理化する機会を逸したといっていい。言葉を変えると、こと自殺の問題については、それが病理かという問いよりも、それが国家・家族という集団にたいしてどのような行為なのかということにより大きな注目をするケースがあったということである。たぶん、この思考パターンは、戦前の日本の精神医学者が、優生学について非常に尻込みをしていたこと、日本で優生学的な手術が離陸したのは、国家と家族のしばりが弱くなった戦後であったことと、たぶん関係があると思う。