21世紀の治験が生み出すグレーゾーンとBBCのドラマ New Blood (2016)

先日の Tokyo College で英語の講演会が開かれた。二回予定されている Pandemic and Cleanliness に関する講演会の第一回で、藤本大士君や HungYin さんが優れた講演をした。私は “The Global Re-distribution of Health and Cleanliness Risks: the Cases of Clinical Trials” と題して、治験という方法が公正さを目指すと同時に歪んだ状況を作り出す状況の話をした。これはオリジナルな研究ではなくて、大学院向けの講義の準備であり、医学史の専門家向けの話ではないが、とても面白い主題であって、機会を見つけては勉強している。

治験は20世紀の後半に導入されて、医療が前進するための重要な中核になった。ヘルシンキ宣言 (1964) などが軸になっているし、ナチス・ドイツや日本の731部隊のような極端な人体実験や、より日常的な臨床に入り込んでいた無造作な人体実験を改革するための方法である。

20世紀の前半から中葉にかけて発見されたインシュリンペニシリンなどの劇的な効果を持つ新薬の時代が過ぎて、それらよりも有効性が「少し高い」新薬や新しいワクチンが開発されるようになる。その時には、新薬などが、すでに受け入れられたスタンダードな療法よりも優れていることが証明しなければならない。動物実験などをしてあとに、数が比較的多い患者やヴォランティアなどに組織的に実験しなければならない。そのメカニズムのもとで行われた、患者に新しい薬を与え、それがスタンダードよりも優れていることが証明されれば、新薬が有効であると決定される。そのなかで、RCT (Randomized Controlled Treatment) や EBM (Evidence-Based Medicine) などが使われている。

これは素晴らしい概念や理論に関する議論である。ただ、現実は、過去においてはもちろん、現在においてもかなり歪みがある。治験の実践はどうなっているか、具体的に何が起きているか、そのメカニズムの狂いはどうなっているか、治験はどのようにずれているかを調べなければならない。

かつては、囚人や病院患者などが、彼らの合意とはほぼ無関係に実験台となっていた。王子脳病院でも、1930年頃に病院にマラリア療法が導入されるときに、病院内にマラリアに罹患している患者が継続的に存在するために、マラリア療法とは無関係な患者に、人工的にそれを実施していた。

昨日の話では、HIV/AIDS とサハラ以南アフリカを軸にして、Sonia Shah 先生や Adriana Petryna先生の本を読み、若い大竹裕子先生などに文献を紹介してもらい、2015-16年にフランスで起きた CROが起こした治験での事故の話、2020年の corvid-19 のワクチンに関する話も紹介しておいた。医療が進歩するためにはほぼ絶対的に必要な治験が、倫理的なグレーゾーンを作り出してしまう面白い事例だった。

そのような話を実佳としていたら、2016年にBBCが作った New Blood というドラマがあり、その第一回がインドにおける治験の乱用が主題になっているということを教えてもらった。アマゾン・プライムで無料で観ることができる。『ナイロビの蜂』にも言及したが、次にはこれも使わせてもらいます(笑)

 

www.tc.u-tokyo.ac.jp

 

www.tc.u-tokyo.ac.jp

 

Amazon.co.jp: ニュー・ブラッド 新米捜査官の事件ファイル(字幕版) : ベン・タバソーリ, マーク・ストリーパン, マーク・アディ, -, イヴ・ガティエルズ: Prime Video

 

 

21世紀の治験が生み出すグレーゾーンとBBCのドラマ New Blood (2016)

先日の Tokyo College で英語の講演会が開かれた。二回予定されている Pandemic and Cleanliness に関する講演会の第一回で、藤本大士君や HungYin さんが優れた講演をした。私は “The Global Re-distribution of Health and Cleanliness Risks: the Cases of Clinical Trials” と題して、治験という方法が公正さを目指すと同時に歪んだ状況を作り出す状況の話をした。これはオリジナルな研究ではなくて、大学院向けの講義の準備であり、医学史の専門家向けの話ではないが、とても面白い主題であって、機会を見つけては勉強している。

治験は20世紀の後半に導入されて、医療が前進するための重要な中核になった。ヘルシンキ宣言 (1964) などが軸になっているし、ナチス・ドイツや日本の731部隊のような極端な人体実験や、より日常的な臨床に入り込んでいた無造作な人体実験を改革するための方法である。

20世紀の前半から中葉にかけて発見されたインシュリンペニシリンなどの劇的な効果を持つ新薬の時代が過ぎて、それらよりも有効性が「少し高い」新薬や新しいワクチンが開発されるようになる。その時には、新薬などが、すでに受け入れられたスタンダードな療法よりも優れていることが証明しなければならない。動物実験などをしてあとに、数が比較的多い患者やヴォランティアなどに組織的に実験しなければならない。そのメカニズムのもとで行われた、患者に新しい薬を与え、それがスタンダードよりも優れていることが証明されれば、新薬が有効であると決定される。そのなかで、RCT (Randomized Controlled Treatment) や EBM (Evidence-Based Medicine) などが使われている。

これは素晴らしい概念や理論に関する議論である。ただ、現実は、過去においてはもちろん、現在においてもかなり歪みがある。治験の実践はどうなっているか、具体的に何が起きているか、そのメカニズムの狂いはどうなっているか、治験はどのようにずれているかを調べなければならない。

かつては、囚人や病院患者などが、彼らの合意とはほぼ無関係に実験台となっていた。王子脳病院でも、1930年頃に病院にマラリア療法が導入されるときに、病院内にマラリアに罹患している患者が継続的に存在するために、マラリア療法とは無関係な患者に、人工的にそれを実施していた。

昨日の話では、HIV/AIDS とサハラ以南アフリカを軸にして、Sonia Shah 先生や Adriana Petryna先生の本を読み、若い大竹裕子先生などに文献を紹介してもらい、2015-16年にフランスで起きた CROが起こした治験での事故の話、2020年の corvid-19 のワクチンに関する話も紹介しておいた。医療が進歩するためにはほぼ絶対的に必要な治験が、倫理的なグレーゾーンを作り出してしまう面白い事例だった。

そのような話を実佳としていたら、2016年にBBCが作った New Blood というドラマがあり、その第一回がインドにおける治験の乱用が主題になっているということを教えてもらった。アマゾン・プライムで無料で観ることができる。『ナイロビの蜂』にも言及したが、次にはこれも使わせてもらいます(笑)

 

www.tc.u-tokyo.ac.jp

 

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Tokyo College が「パンデミックの時代の清潔と衛生」というシンポジウムを行います!

2022年11月2日の16時から、英語でシンポジウムが行われます。主題は過去と現在の清潔と衛生の歴史と現在。若い俊英の学者の藤本大士君や Tsai HungYin さんと並んで、私は疾病に対応する手段の新薬品やワクチンが広まっていく過程について話します。ぜひご参加ください!

 

www.tc.u-tokyo.ac.jp

ティモシー・ヤング先生の Medicated Empire (2021) の書評を発表しました。

British Journal of Psychiatry に、ティモシー・ヤング先生が書かれた書物 A Medicated Empire: The Pharmaceutical Industry and Modern JapanMedicated Empire (2021)の書評を発表しました。日本が植民地であった台湾、朝鮮、中国などでアヘンを栽培したメカニズムを分析する非常に優れた著作です。ぜひオリジナルをお読みください!

 

www.cambridge.org

Book review of Timothy Yang, Medicated Empire (2021)

I have just published in the British Journal of Psychiatry a book review of Timothy Yang, A Medicated Empire: The Pharmaceutical Industry and Modern JapanMedicated Empire (2021. Yang’s book is an excellent historical book based on solid research into the imperial aspects of the Japanese drug industry. Particular attention is paid to the production of opium in colonies of Taiwan, Korea and China. Please read the original book! 

 

www.cambridge.org

永井荷風『濹東綺譚』と玉ノ井の酌婦の精神病

昨日、廣川先生から梅毒に関する非常に優れた論文をいただきました。私は王子脳病院で患者の記録を観ていますが、梅毒による麻痺性痴呆が進行すると、当時は有効であったマラリア接種をしても、まったく効果がないことを実感します。永井荷風『濹東綺譚』と患者記録を一緒に読んでみた記事です。お読みください。

 


           
         
       

『墨東奇譚』と玉ノ井の酌婦の精神病

F0002 28才、玉ノ井の酌婦、1944.02.14-04.13, 麻痺性痴呆、未知退院

永井荷風の『濹東綺譚』を悪く言う人に出会ったことがない。昭和12年に発表された作品で、近代化と軍国主義へ進む東京の隅田川の向う岸を舞台にして、初老の物書きが玉ノ井の酌婦に出会い、淡雪のような恋愛遊戯が消えていくありさまを風情豊かに描いた傑作である。私自身も好きな作品の一つである。たまたま、戦前東京の精神病院である王子脳病院・小峰病院の患者で、玉ノ井の酌婦で梅毒由来の精神病となり、脳病院に2か月ほど在院したものがいたので、『濹東綺譚』を読み直してみた。これが、予想に反して、暗澹とした気分になった読書であり、その患者がそのまま『濹東綺譚』から出てきたような印象を持った。荷風がもちろん知り尽くしてはいただろうが、この作品では直接描いてはいない梅毒の陰惨な現実をまざまざと見せつけるような診療録である。

 

F0002は向島区寺島町の接客業であり、「玉ノ井の酌婦」と余白に説明のために書いてある。

父没母健在、同胞は三人で第二子。出生地・本籍地は記入なし。現住所は玉ノ井寺島町〇丁目〇番地で、荷風が『濹東綺譚』を設定した場所とほぼ同じである。彼女を病院に連れてきたのは「主人」とあるから、店の主人だろう。彼女の病気は半年前から始まっており、最初のエピソードは昭和18(1943)年の8月末に痙攣が起きて数日間意識不明になったものであり、10月末、12月末にも同様の発作があった。昭和19(1944)年の2月14日から同様の発作が襲来し、もうろう状態のまま彼女は病院に運ばれた。費用は自費であった。検査の結果、ワッセルマン反応もノンネ=アペルト反応も強陽性で、梅毒性の進行麻痺であると診断された。

 

進行麻痺にはルーティンの治療法が存在し、それがマラリア接種による発熱療法であった。入院して8日目にマラリア原虫が静脈に接種され、2月26日から40度台の発熱が始まり、これが進行麻痺を治療すると期待された。しかし、F0002に対しては、発熱するばかりで何の効果もなかった。入院時に彼女は非常に重篤な症状であった。顔貌は呆乎・鈍磨の状態であり、歯ぎしりをして、「うーん」と呻るばかりであり、裸体となって放尿し、拒診・拒薬であった。食事が自分でなんとかできる以外には、横臥しているばかりであり、便所に行くことすらできず、しばしば寝床で放便・放尿してそれを手でいじっていた。言葉も「うう」とか「え、え」というような単音節語ばかり、交話らしいことは一切できなかった。面会は二回。まずは2月23日に「主人」が面会に来て、そこでも「カヘリタイ、カヘリタイ」と言うだけで、あとは「ウ、ウ、」と言うだけであった。4月12日に「家人面会あり」というから、これは主人ではなくて家族の一人だろうが、やはり交話することはなく「ウン、ウン」と言うだけであった。その翌日に患者は退院している。想像力を働かせると、F0002は地方出身の酌婦で、玉ノ井の仕事にはつきものの梅毒が神経を侵し、半年ほど発作を押して仕事をしていたが、とうとう激しく侵された状態で入院したこと、2か月の入院のあと、生家か親戚かを呼んで引き取らせたということになるだろう。玉ノ井の酌婦が、重度の梅毒性精神病にかかり、東京の精神病院の比較的短期の入院を経て、貧困にあえぐ農村に廃人となって送り返されるプロセスの一部を描き出していると考えていいだろう。退院の日の看護日誌は「4月13日 何もわからず、身支度などしていただき、何も申さず本日十時退院」と記している。

 

『濹東綺譚』のお雪は、もちろん主人公が淡雪を解かすように関係から去っていくのだが、お雪のほうでも病気になって入院して物語から去る。そのありさまを荷風はこのように記している。「お雪の病んで入院していることを知ったのはその夜である。雇い婆から窓口で聞いただけなので病の何であるかも知る由がなかった」