必要があって、今昔物語の現代語訳を読む。福永武彦の現代語訳がちくま書房から文庫で出ているという、文明国の贅沢。
『今昔物語』は、天竺(インド)、震旦(シナ)、本朝(日本)の三部に大きく分かれて、合計で約1,000点の短い説話が集められている。そのうち、大胆に「本朝」だけ絞って、合計155編を福永が選んだ選集。選択は「訳者の文学的嗜好に基づいている」と簡単に説明されている。この155編が、8部に分けられ、「世俗」「宿報」「霊鬼」など、共通の主題を持つ短編が並べられている。この主題と分け方は、原典に重なっている部分もあるが、福永が自分で立てた分類もある。
文体といいストーリー展開の切れ味といい、上品に洗練させた知性がこめられていて、フランスのコントを思わせる。『今昔物語』は庶民のヴァイタリティを表現しているとよく言われるから、福永の訳は議論が分かれるところなのかもしれないが、私はとても楽しく読んだ。有名な話、教科書で読んだ話、別の話で知っていてもとは今昔だったのかと無知を恥じた話など、『今昔』の中で親しんできた話が多い。
その中でひとつ、私が初めて聞く『今昔』の説話で、これを知っておいてよかったというものがあった。「天狗に狂った染殿の后の話」として訳されているもの(巻廿第七話)で、文徳天皇の宮廷がヒステリーとエロトマニアに蹂躙されるという話である。
「染殿の后」は文徳天皇の后で、藤原良房の娘であった。彼女は日ごろ「もののけ」にわずらわされていて、大和の金剛山の聖人を召して、后の体についた悪霊を侍女の体に移動した後、それを追い出すことができた。その侍女は、まるでシャルコーのヒステリー患者のように体を硬直させて弧を描いたようになっていたことが目に浮かぶような記述になっている。
しかし、その聖人が、回復した后に癒しがたい愛欲を持つようになってしまった。后が、夏の夕の几帳のとばりの前で、薄物の単衣ばかりでいたのを見たときに、その美しい姿に聖人の心はしびれ、愛欲にくるって后を犯そうとする。その企ては妨げられるが、後に聖人は死んで鬼となってでも后を犯すという執念を持って死に、その通りに鬼となる。裸の体、おどろの髪、黒い肌、大きな口に牙という、お決まりの鬼の形をなった聖人は、后のつぼねにあらわれ、術を使って后をたぶらかし、后に愛欲の心を持たしめ、二人は几帳の中でともに寝る。そして、ついには、鬼と后は、人々の見ている目の前で、目を覆うようなことをあからさまにするようになったという。
この迫力がある話は、超自然の存在が出てきて、ヒステリーとエロトマニアの集団発生が起きるという内容である。どれと特定できないが、近世の悪魔つきの話にもありそうだし、『ドラキュラ』の比較的新しい映画(ウィノナ・ライダーが出ていた)も、幸福な家庭がエロトマニアで破壊されるというエピソードがあった。