日中戦争下の廣東における精神病一斉調査

笠松章「廣東地方に於ける比較精神医学一資料」『精神神経学雑誌』vol.46, no.4, 1942: 188-194.

東大精神科を卒業した内村祐之の弟子で、軍医として応召されて南支の廣東地方の一部落に2年半駐留した。笠松が「B郷」と呼ぶこの部落は人口は7,000人ほどだが、男500人、女150人が華僑として出稼ぎしており、100名の富裕な階級は事変のあとは香港に逃げている。日本との戦争は、日本が意図しなかった壊滅的な打撃をこの地域にも与え、過酷な環境をそのまま直接に浴びる子供にその被害が鮮明に出て、乳児死亡の高さ、子供の少なさ、あるいは意図的な子殺しすら存在した。(この部分の笠松の台詞回しには、日本軍に対する批判が見え隠れする)

もともとはこの地域に特殊な精神病を探したのだが、これが存在しなかった。内村のアイヌのイムや、クレペリンのジャワのラターのように、系統発生学的に一民族の精神分化を図る尺度としての原始反応を見つけられないか、あるいは低い宗教形態である呪い、祈祷、憑依などがないかと思って探した。男でも女でも占い師(ナムロウ、オニババと読むのだろうか?)はいたが、彼らにしつこく神の声を聴いたことがないかと聞いても否定され続け、しまいには、そんなものは存在しないと冷笑される始末。日本では、いまなお狐憑きなどの低級の宗教憑依が存在するのに較べて、中国の貧困な農村にはそれがないという発見は、笠原に日本の文化のあり方を反省せしめた。日本が文化を急速に進歩させ、中国に対していつのまに軽蔑的な態度をとるようになっているが、日本ではその進歩が急速だったため、取り残された下限も存在する。一方中国においては、全体に貧しく水準は低いが、その下限は(日本よりも)高い。

笠松が発見できたのは、通常の精神病の患者だけで、分裂病3、躁病1、GPIが1、てんかんが1 である。

驚くべきなのは、たったこれだけの発見から、笠松は内村が八丈島で行ったような精神病一斉調査の研究になだれ込ませようとすることである。年齢階層別の人口が分かる事から、堂々としてワインベルクの簡便法を用いて補正頻度を計算しようとする。その結果は、このB郷は、精神病が圧倒的に少ないということがわかる。八丈島の分裂病頻度が0.91であるのに対し、B郷は0.08、三宅島の躁鬱が0.57だったのに対し、B郷は0.03 という数値である。

さらに驚くべきことは、笠松はこの数値の妥当性にこだわることである。戸別訪問はしていないし、言語が普通であり、軍の通訳は「機関銃」という言葉は知っていても精神病一斉調査には役に立たない。だから、この調査が不完全なものであることは認める。「しかし」と笠松は続ける。自分は2年半にわたってこの地に住み治療もしてきたから、この数字の少なさは、現実にこの地には精神疾患が少ないことを意味しているにちがいない。この地では精神病の患者を家門の恥と考えないから、隠蔽されるわけでもない。それなら、なぜ少ないのか。彼が言うには、まず結婚様式である。つまり、この部落では、同じ姓のものとは結婚しないというルールがある。これは「近親結婚が禁止されている理想的な状態」であるという。笠松が近親婚、特に日本の近親婚を悪遺伝を偏在し集積させる悪しき社会装置として不安に思い、それを禁止している中国に精神病が「少ない」のをうらやましく思っていることがよくわかる。

もう一つが、精神病を遺伝的に考える傾向が低いので、患者でも当たり前に結婚して、拡散されてしまうということである。