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条件反射を形成したイヌを用いたヒロポンの効果の実験

  • 吉井直三郎・陰山以文・藤堂清「<ヒロポン> (d-β-Phenylisopropylmethylamin)の条件反射に及ぼす影響」『大阪医学会雑誌』vol.42, no.12 (1943), 1962-70.
  • 吉井直三郎・陰山以文・藤堂清「<ヒロポン> (d-β-Phenylisopropylmethylamin)の条件反射に及ぼす影響に関する知見補遺(<ヒロポン>と臭剥の一関係に就て」『大阪医学会雑誌』vol.42, no.12 (1943), 1971-73.
  • 吉井直三郎「精神分析と条件反射」『思想』No.342(1952), 27-34.

 

 第二次世界大戦期の各国において、軍の戦闘力を高めるために戦闘員にどのような薬物を与えたらいいかという研究が行われた。「ケミカル・サイボーグ」としての戦闘員という側面が現れた最初の時期であろう。特に重要であったのが、β―フェニルイソプロピン関連の薬物である。もとは明治期に日本の長井長義が麻黄の成分を研究中に発見し発表した物質であるが、1930年代後半から研究がエスカレートした。1935年のアメリカで「ベンゼドリン Benzedrin」という名称で、翌年に同じ名称でイギリスにて、そして1938年のドイツで「ペルビティン Pervitin」という名称で発売されたのは、この系列の物質を用いた薬である。これと同じものが「ヒロポン」として日本で開発・利用された。

 薬効としては『最新医薬品類聚』(1948)は、強力な中枢性興奮作用、精神的・肉体的な活動を著名に亢進させること、判断力・思考力の増加、力行欲、作業能の高揚、疲労の予防・あるいは除去、元気の回復と気分の爽快、睡眠除去と覚醒作用、不快感を伴わない不眠状態である。これが、軍によって戦闘員に対して用いられて、兵士の戦意の亢進、疲労除去、集中力の持続などに用いられた。これが世界で初めて開発販売された一群の覚醒剤であり、その後に中毒性が明らかになって現在ではもちろん非合法化されている。

各国ごとの薬物の研究文献をみると、アメリカ・イギリス・ドイツにおいては、それぞれベンゼドリンやペルビティンに関しては数多くの実験が行われていることがわかる。問題は、日本の医学者がどの程度「ヒロポン」を実験していたかであるが、この論文によると、1942年に刊行された論文が一点あるだけである。そのような研究の不足を背景にして、イヌを用いた実験、特に条件反射が形成されたイヌを用いた実験によって、ヒロポンが人間の精神機能に与える影響を調べようというのがこの実験の目的である。論文の内容から、直接関係がある実験が行われたのが1943年の4月から5月であるということが分かるので、日本の軍部や政府のどのような動きに対応していたのかが分かるだろう。

実験では、4つの主たるポイントの論証が試みられている。適当な量のヒロポンは、条件反射を形成したイヌに与えると、その条件を与えたときの陽性の反射の量を増加させ、反射が出るまでの時間(潜時)を短縮する効果があることを示すというのが第一のポイントである。メトロノームの音を聞かせると唾液が出るように条件反射をつけてあるイヌに、適量のヒロポンを投入してから同じメトロノームの刺激を与えると、通常よりも多くの唾液が出るし、また唾液が出るまでの時間が短くなる。このヒロポンの効果を、人間に翻訳して考えてみると、ある仕事に対して体力が出るだとか、やる気が出るといったような、仕事をする元気の問題と、反応が素早いか、迅速な対応ができるかという問題になると思う。いずれも第二次世界大戦では必要とされた能力であり、この能力がヒロポンによって向上することを認めたのは、実践・実戦において大きな意味を持っていただろう。

第二のポイントは、過剰量のヒロポンを与えたあとでは、条件反射量は減少し、反応が出る前にかかる時間がかかるようにある。ヒロポン量があまりに多いと、条件反射がまったく消失することすらあり、イヌは、不安な状態になり落ち着きなくヒーヒーと小啼きをする状態になってしまう。第三のポイントは、この過剰量のヒロポンによる条件反射の阻害と消失が、臭剥(臭化カリウム)の投与によって速やかに回復することである。ヒロポンが多すぎると精神に害悪があること、与えすぎたときにどうすればよいかをイヌの条件反射を用いて研究したものと考えられる。

第四のポイントの意味が分かりにくいのだが、ヒロポンが消去制止に及ぼす力である。条件反射を形成したイヌに対して、その条件反射を消去することもできる。メトロノームを鳴らして餌を与えることを繰り返し、メトロノームだけで唾液が出るような条件反射を形成したイヌに対して、メトロノームを鳴らして餌を与えないことを繰り返すと、この条件反射は消去される。この過程を制止するような力を、ヒロポンが持つというのである。ヒロポンを与えたイヌにおいては、条件反射を消去するのに、より時間と手間がかかるというのである。ヒロポンを与えられると、より記憶力を持ち、忘れにくい精神を持つということになるのだろうか。

 実験の中心の吉井直三郎は、阪大出身の生理学者。論文出版の時点では徳島医専の教授。1945年5月には阪大の助教授となり、1948年の4月に阪大の教授となる。戦後には精神生理学の指導的な学者となった。おそらく、多少は論客としても活躍したらしい。現代新書の執筆や、1952年の『思想』(342号)に、条件反射の立場から精神分析を批判する論文を書いている。