1863年のマダガスカルにおける舞踏病

Davidson, Andrew. "Choreomania: An Historical Sketch, with Some Account of an Epidemic Observed in Madagascar." Edinburgh Medical Journal, vol. 13, no. 2, 1867, pp. 124-136, PMC, http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5295884/.

 

しばらく前に16世紀のストラスブールにおける舞踏病の記事を書いた。その書物でも触れられていた、1863年に起きたマダカスカルでの舞踏病について、1867年の刊行された論文を読んだ。とても水準が高い論文であり、この段階でかなり進んでいた書物や論文に関するリサーチも優れているし、実際の分析もとても鋭い部分を持つ。

コレアマニア choreamania という名称で呼ばれている疾病は、ヨーロッパでは中世と近世初期には別の名前で呼ばれることが多かった。パラケルススやバリーヴィの言葉を引用して、うまく形をまとめている。最初は一般的な症状であること。たいこ、タンバリン、笛、リラ、シンバル、バイオリン、フルートなど、どのような楽器を聴くと舞踏がはじまるのか。若い女性がかなり多いが、彼女たちが安易な好色さを露骨に出すこと。メランコリーになって墓場に行って先祖に逢うこと。好きな色が、ドイツとイタリアで違う事などが記されている。19世紀のアビシニアの事例も引用されている。これも読もう。

マダガスカルの舞踏病の症状は、ヨーロッパととてもよく似ている。1863年の2月に周辺ではじまり、数か月で首都に到着する。最初は一般化された症状が出てくる。次に音楽に対応して舞踏をするようになる。患者でいうと14-25才の若い女性が全体の3/4 を占めるが、そうでない年齢層からもそこそこいる。ドラム、びん、拍手、歌などで舞踏が始まり、墓を訪れる行為も存在していた。月光にてらされたという。

最も面白いのが、政治的・宗教的・社会的な状況である。当時のマダガスカルでは、ラダマ1世、ラダマ2世、ラナヴァローラ女王などの重要な王や女王たちがいて、キリスト教を受け入れるか、政治的にどのような対応するか、どのように治療し癒すのかという対応などが、政治と宗教の激変と絡み合っていた。イギリスの医師は、この事件を見て、インドなどにおけるこのような対応を鮮明に警戒している。1867年には、日本においても楽器があり音楽があり舞踏があった「ええじゃないか」があり、これも軽く調べておこう。