シャルコーとヒステリーの演劇学と映像学

http://newbooksnetwork.com/jonathan-w-marshall-performing-neurology-the-dramaturgy-of-dr-jean-martin-charcot-palgrave-macmillan-2016/

 

2016年に刊行された、Jonathan Marshall, Performing Neurology: The Dramaturgy of Dr Jean-Martin Charco (2016) という書物がある。19世紀末のパリでヒステリーの研究を行い、著名な女性患者を用いたヒステリーの症状の実演が、世紀末の精神医学や神経学では非常に著名なものであった。ヒステリーがまるで怪物に憑かれたように、仰向けになって頭と足で弧を描くような体勢も著名であるが、シャルコーの映像とはそのようなゴシックなものを中心に置くのではなくて、無力に失神した若い女性が中心に描かれている。しかし、その怪物ヒステリーも、壁の一角に掲げられていることにも注意しよう。シャルコーの絵画の左端の壁である。中枢に19世紀のしとやかな女性を置き、周縁には怪物が憑いた女性の肖像を置いたものである。

・・・というような説明を授業ではいつもしていた。ただ、今回の著者の説明を聞き、書物を実際に読むと、19世紀の演劇学や映像学とより具体的な関連を持っているありさまが描かれているだろう。それから、この発想を日本のマテリアルに重ねることもできるだろう。日本でも精神疾患の映像は複数件数は作られており、それらが見つかる日も近いと思う。静止の映像を見ると、なるほど一定の映像学を用いているような気がする。日本の精神医療の映像は、フランスというよりもドイツが原型になるだろうし、そのような映像は数多く見ることができる。日本の小説にも影響を与えていて、映像と小説を精神疾患に合わせて書いた『ドグラ・マグラ』もその流れで抑えることができるだろう。

 

f:id:akihitosuzuki:20180609162409j:plain

f:id:akihitosuzuki:20180609162514j:plain

 

 

 

昭和16年から17年の女学校におけるヒステリーの流行

今日はロンドンからいらした先生とお昼を食べながら、国際共同研究のお話をした。数日前に廣川さんに教えられた文献である村中璃子さんの『10万個の子宮』という非常に面白い本を読んでおいたこともあり、その先生と子宮頸がんの副反応の問題、思春期の女性の「ヒステリー」の問題などの話をすることができて楽しかった。ちなみに、その先生は村中さんが2017年の John Maddox Prize を受賞したことを論ずるガーディアンで登場した先生である。

その関連で、しばらく前に読んで印象的だった、昭和16年から17年の東京の女学校におけるヒステリーの流行記事を思い出したのでPDFを取り出して読んでみた。佐藤亨「『ヒステリー』の流行性発生に就いて」『順天堂医事研究会雑誌』no.589(1943), 19-29.  これよりも本格的な論文が準備されていて、おそらく刊行されているが、それは私はまだ読んでいない。

事件の中心は、東京の女学校で15人の女学生がヒステリーを流行させて起こしたことである。昭和16年の6月に2例、昭和17年の2月に集中して12例、3月に1例が起きている。14例が4年4組と4年5組の二つのクラスに集中している。この女学生たちを調べて理解しようとしている報告である。一人っ子もいたし、父母に溺愛されていたものも複数いたし、結核ではないかということを家族が恐れている例もあった。寝物語に祖母に怪談を聴かされて、それを好んでいたというお決まりの変態もいた(笑)座席を見ると、教室に散っていた左側の4年4組もいるし、集中していた4年5組もいた。

もう一つ。ヒステリーなどほとんどいなかった1組、2組、3組は普通の家庭の主婦を目指し、4組と5組は「理科的な方面乃至は専門学校の入学を目標として教育されている」という記述が入っているということは、女学生は主婦を目指すのが健康であり、理科や専門科目を勉強するとヒステリーになるという記述があるのかなと思う。

 

f:id:akihitosuzuki:20180606181054j:plain

第一次大戦と関東大震災の日仏比較講演

日本医史学会の功労会員である小林先生が、第一次大戦関東大震災を較べて、フランスと日本を比較する講演をしてくださいます。ぜひお出でくださいませ!

*****

日仏医学会 講演会のお知らせ

期日:2018年6月30日(土)18時

場所:日仏会館5階会議室(地図参照)

 

日仏医学会に所属されない方も気楽にご参加ください(参加費1,000円)

参加を希望される方は事前にご連絡ください。

連絡先:中谷陽二 Email  yojinaka47@yahoo.co.jp

 

・・・・・・プログラム・・・・・・・

講演会

<留学報告> 西依 康先生(自治医科大学精神医学教室)

『パリ精神科留学報告記(20162017

<特別講演> 小林 晶先生(日仏整形外科学会名誉会員、日本整形外科学会名誉会員、  日本医史学会功労会員、Fukuoka Orthopaedic Hospital, Société Franco-Japonaise d’Orthopédie)

災害時における日仏医療の交流 第一次世界大戦関東大震災

懇親会 19時45分 レスパス(日仏会館2F) 会費5,000円

 

1915年、大戦下のパリに日本赤十字社から派遣された救護班「第四厚誼病院」は延べ5万人を超える傷病兵の治療にあたり、高度の医療と献身的な看護に対してフランス国内に賞賛の声が上がりました。奇しくもその8年後、関東大震災で壊滅状態の首都に被災者救助のための「仏蘭西寄贈病院」が開設されました。今年は大震災救援に奔走した駐日大使で劇作家・詩人でもあるポール・クローデルの生誕150年にあたります。記念すべき年を迎えて日仏医学の相互交流の礎となった2つの出来事を振り返ります。

(日仏医学会会長 中谷陽二) 

JR山手線恵比寿駅東口下車 恵比寿ガーデンプレイス方面へ 徒歩10 分

東京メトロ日比谷線:恵比寿駅1番出口アトレ・JR 恵比寿駅東口経由 徒歩12 分

f:id:akihitosuzuki:20180604111326p:plain

日本製の『赤毛のアン』?

カナダの東側に、プリンス・エドワード・アイランドという島がある。人口は14万人くらい。その大学には医学史の研究者がおり、歴代にわたって精神医療の歴史の研究者になっている。先日、彼とドイツの研究者二人とワークショップに関して話す機会があった。その時に、『赤毛のアン』が話題になり、どうでもいいことをメモ。
 
彼はAnne of Green Gables という作品を知らず、日本人が『赤毛のアン』という作品を書いたと思っていた。人口14万人の島に、年間100万人を超える日本の観光客がやってきて結婚式をしたりすることも、日本人が作り出したと思っていた。数字が本当かどうかは私は知らない。そこに同席したのはドイツ人二人で、お住まいはドイツとイギリスだが、どちらも『赤毛のアン』も Anne of Green Gables も知らなかった。
 
これは何の問題があるのかよく分からない。実のことを言うと、私自身も『赤毛のアン』も Anne of Green Gables もよく知らないし読んだことがない。ついでに言っておくと『若草物語』と『あしながおじさん』はかなり好きな作品である。

鬼頭宏先生とシェアハウス!

z241.secure.ne.jp

 

静岡市のあちことで無料で配っている「すろーかる」というフリーマガジンがある。静岡市や近辺の地域を選んで、そこのお店などを紹介する雑誌。なかなか面白いです。今回は草薙特集で、静岡県のご出身か何かで、ご専門は歴史人口学である静岡県立大学の学長の鬼頭宏先生が、若者向けのシェアハウスを作った不動産業社の社長と元気に話すという企画。ぜひご覧ください!

ミュシャ展 運命の女たち 静岡市美術館

「ミュシャ展」|静岡市美術館

 

2017年の9月に京都にはじまり、名古屋、広島、福岡を巡った展示に行ってきた。

ミュシャは私が学生の頃だった1980年代では東京で人気がある画家で、世紀末やファムファタールという企画でよく拝見した。そのころに買った絵葉書が残っていたりする。これはパリの全盛時代の話であるが、先日の新国立美術館のスラブ叙事詩や、今日の展示でも強調されていたアメリカでの発展と財源の確保など、世界を経めぐった人生と絵画の伸展が描かれていて、とても面白い。

会場の説明で何気なく触れられていたテーマだが、ミュシャがパリに滞在した時期には、心理学や超心理学にも興味を持ち、催眠療法などにもかかわっていたとのこと。そういわれてみると、パリの時期の女性が持つ特異な魅力がわかるような気がする。気がするだけですよ(笑)

 

 

ナチスの強制収容所に関する日本人の精神病医の見解

加藤, 正明. ノイローゼ : 神経症とは何か. 再訂増補 edition, 創元社, 1959. 創元医学新書.

戦後の日本がナチス強制収容所をどう理解していたか、いつどのように理解が変ったかという問題。これは私の無知の問題だと思う。ナチス強制収容所の<目的>について、いつ理解が変わったかという問題だろう。現在では抹殺が目標であると正しくとらえているが、人格を転換させることが目標であったという考えがあった。この考えは1955年の初版でもそして70年代でも論じてられていたケースである。

創元医学新書やブルーバックスなどの20世紀中葉の医学啓蒙書や科学啓蒙書のシリーズがある。自分が子供の頃に読んでも楽しかったし、いま読んでも研究の側面で楽しい。その中で、日本のアジア・太平洋戦争時の戦争神経症について、非常に重要なのは加藤正明『ノイローゼ』である。1955年に初版が出て、それから20年余り改定しながら刊行が続いていた。加藤自身がビルマを中心に戦争の場での精神疾患の治療などにかかわり、戦場・敗戦がどのように言説とからまっているのか再構成できる。うまく史料が見つかると、かなり水準が高い分析ができるだろう。素晴らしい研究書である『戦争とトラウマ』を書いた中村江里さんはきっともう深く考えているかもしれない(笑)

そんなことを考えながら、加藤の本から必要なマテリアルをメモするときに、ちょっと不思議なマテリアルがあった。加藤がナチス強制収容所についてどのように捉えていたのかがわかる部分である。長いが引用しておく。

***

またナチスの集団収容所(コンツェントラチオンス・ラーガー)は、人間を集団的に身心の限界状況においた実験であった。収容者の一日カロリーは1800カロリー、要求された労働には3000カロリー以上が必要だった。一日17時間休みなしに風雨にさらされて働き、面会も禁止された。しかもなんのために投獄されたのか、今後何年おかれるのかわからなかった。ナチスの目的はこの状況におくことによって、人間を変えてしまうことにあった。

こういう言語に絶した身心の限界状況で、人間が順応していく過程を、収容者の一人である心理学者ベッテルハイムが冷静に記録している。最初の収容時のショックの時期には、中産階級のものに自殺や異常な行動などがみられた。第二期の拷問の時期には、恐ろしい体験をしているのはほんとうの自分ではなく、主体から離れたじぶんであるかのように感ずる「自己疎外」の体験があった。この二つの時期を経て、収容者はナチスの意図する鋳型にはまった人間にかわっていく。誰もが看守のような服装をしたがったり、言動まで看守に似てくる。収容所外の世界との接触を避け、収容所の生活に閉じこもり安住するようになる。しかもこの世界では自殺も神経症も起こらなかったという。

***

ベッテルハイムがいつの集団収容所に入ったのかよくわからないが、ホロコーストが始まった時期ではなく、1939年には脱出しているので、たしかにこれが正しい可能性がある。でも、それ以降の強制収容所の目的は抹殺であり、人格変更ではない。この記述、ちょっとおかしい。

このベッテルハイムというのは、ブルーノ・ベッテルハイムという哲学者である。ユダヤ人として1938年に収容されたが、幸いなことに39年に収容所を脱出してアメリカに移住して、シカゴ大学の心理学の教授として尊敬された。しかし、実際は取得していない心理学の職であったし、女性患者に性的な暴行を継続を行ってもいたことが後に明らかになり、ベッテルハイム自身も晩年に自殺する。

加藤がベッテルハイムを引用するのはいいが、ナチスの目的が「人間を変えること」であったということも、現在では不十分な言い方である。目的が抹殺であったというのが正しい。あるいは私はそう思っている。ここの加藤らの理解の姿勢もよくわからない。