三島由紀夫の『葉隠』論

 長い長い出張から帰ってきました。お休み中にも訪問してくださった方、申し訳ありません。その間に頂いたコメントへの答えなどは、これからおいおいしていきます。

 出張中というのは飛行機の中や空港の乗り継ぎの待ち時間、時差ぼけで目が冴えてしまっている真夜中のホテルの部屋など、時間がけっこうあって、色々な本が読める。これからしばらくその間に読んだ本の紹介をします。最初の文献は、三島由紀夫『葉隠入門』(東京:新潮文庫、1983)

 カナダでの自殺のペーパーは、戦前の精神医学者たちの自殺に関する言説分析をした。資料も方法論も概念装置も、特に目新しいところはないペーパーだったが、体裁は整えた。これから書き直す機会があると思うが、その時に臨床についての議論を絡ませることができたらいいのだけれども。

 その準備をしているときに、三島由紀夫が『葉隠入門』という書物を書いていること、しかもそれが文庫本で手に入ることを知って、一冊買って飛行機の中で読んでいった。報告の中で特に三島に言及はしなかったけれども、報告のあと、ポーランドの若い女性研究者に「あなたの話と、例えば三島の死はどのように関係しているの?」と質問されたことを考えると、話の端々に三島を連想させるところがあったのかもしれない。

 三島が『葉隠』の中に見出したのは、明朗な行動力を賛美する単純な道徳であった。自信に溢れ、疑問を持たない情熱を至上とする倫理であった。三島=葉隠の言葉を使うと、「分別」を軽蔑し「死狂い」を尊ぶ倫理である。自らが生業とする「文学」と戦後の複雑な社会を一刀両断に断ち切ってくれるアンチテーゼを『葉隠』の中に読み込んだことになる。カナダから国会図書館のカタログにアクセスしてタイトル検索で「葉隠」と入力したら、昭和10年から20年までの間に実に50点以上ヒットした。聖書のような扱いであったらしい。例えば特攻隊員が三島のように『葉隠』を読んだとは考えにくいが、戦時の聖典の一つの読まれ方として、参考になった。

 自殺とは関係ないが、一つ面白いエピソードを発見したので紹介しておく。武士道の身体化とジェンダーと医学というような問題と関係がある議論で、きっとアメリカあたりの江戸医学研究者の間では有名なエピソードだと思うが、私は知らなかった。現代語訳をそのまま引用しておく。

ある人の話だが、医師享庵が、以前、つぎのように述べたそうである。「医学では男女を陰陽に区別して、治療するにも本来差別があるものだ。脈も男女では違っている。しかし、この50年ほどのあいだに、男の脈が女の脈と同じような調子に変わってきている。このことに気づいてから、眼病の治療にさいして、男に対しても女の治療法でこと足りるようになった。男に、男にふさわしい治療をしてみてもいっこうにしるしが現れず、さては末世ともなり、男の意気がおとろえて女同様になってしまったかと考えている。・・・」このことを念頭において最近の男をみると、いかにも女脈ででもあろうか、と思われることが多く、あれはまことの男だとみえるのはまずまれである。

 色々な読み方と研究方向を示唆するようなエピソードである。面白いと思った方は遠慮なく使ってください。