ナイジェリアの精神病院

 ナイジェリアの精神病院についての研究書を読む。文献はSadowsky, Jonathan, Imperial Bedlan: Institutions of Madness in Colonial Southwest Nigeria (Berkeley: University of California Press, 1999).

 植民地における精神医療は、地域ごとに大きな違いを見せている。例えばインドではイギリス人たちを収容する精神病院が数多く立てられた。一方、同じイギリスの植民地でも、ナイジェリアにおいては現地人向けの精神病院が散発的に作られたにとどまり、それらも「収容」だけを目的にしたものであった。精神科医が全く雇用されなかったということが、これらの施設の性格を象徴している。1920年代から、これらの精神病院の劣悪な状態はたびたび批判され、植民地政府当局も改革を約束するが、改革が実現するのは1950年代に入ってからであった。この理由を、著者のサドウスキーは、予算の制限と、「間接支配」という当時のイギリスの植民地支配の枠組みによるものだったと考えている。前者については、精神病院の建設と維持には莫大な金額が必要であることを改めて確認した。1930年にナイジェリアの植民地政府がイギリスの植民地省に申請した公衆衛生予算のうち1/3が一つの精神病院建設予算が占めていたという。疫学的に必ずしも目立った疾患でない病気にこれだけの予算をかけるのは難しい。後者については、精神病患者の治療も含めて、アフリカ人が持っている土着の文化をみだりに破壊するべきではないという考え方の中で、西洋型の治療法であると考えられた精神病院は中途半端な形で放置されていたという。 エヴァンス=プリチャードのような文化人類学揺籃期の傑作を作り出したイデオロギーは、精神医療を停滞させる力ともなったのである。

 この停滞した状況が切り開かれるのは、T.A. Lambo という、イギリスで医学教育を受けたヨルバ民族出身の医者が帰国して、精力的な活動を始めてからである。ランポは、当時の最新の精神医療をナイジェリアに導入し、アロ村に複合治療センターを作った。インシュリンショックや電気ショックという最新の治療が実践され、精神病者のコロニー的な治療のような性格を持たせていた。何よりも面白いのは、精神病とその治療において文化的な側面が重要であること、ナイジェリアは多民族国家であることを認識していたランボは、国内を旅行して、各々異なった文化的背景を持つ15人の伝統的な治療者を病院に集め、多文化精神医療の側面も持たせていたという。自治と独立への動きが、植民地支配のもとで長いこと停滞していた精神医療に大胆な革新の息吹を吹き込んだのである。

 この本にはもう一つ面白い狙いがある。カルテに記載されている患者の行動を歴史的に読み解こうという試みがそれである。私も含めて精神医学の社会史の研究者の多くが挑戦している問題だが、私はこの本でまとまった試みが行われているのを知らなかった。ああではない、こうではないという、「やらない」ことを論じている方法論的な議論が多く、実際の分析が冴えているという印象は持たないが、行き止まりの道を列挙したというのは大きな貢献である。同じようなことを考えている研究者には必読である。