未読山の中から医者―患者関係の社会学の古典的な論文が出てきたので喜んで読み返す。文献はArmstrong, David, “The Patient’s View”, Social Science and Medicine, 18(1984), 737-744.
20世紀の前半まで、医者―患者関係は、ミシェル・フーコーが『臨床医学の誕生』で分析した状況にあった。患者の主観が二次的な意味しか持たない状況である。医者―患者関係において、医者側にとってまず最も重要なのは<診断>であることは、ヒポクラテス派を別にすれば、西洋医学において変わらない特徴である。そして殆どの病気の診断において重要なことは、患者の主観ではなく、客観的に特定できる病気の<徴候>を突き止めることである。そこでは患者の主観に基づいた病気に関する物語は二次的な意味しか持たない。問題は、診断上はあまり価値がない主観的な物語を延々とする患者である。
20世紀前半の診断マニュアルは、一言で言って、患者の愁訴を「我慢して」聴いて、本番の聴診や触診やX線や血液検査などにさりげなく進むように医者に説いていた。しかし、20世紀の後半になると、患者による物語は医療の重要な一部として取り込まれるようになる。患者の身体のどこが故障しているのかという医療モデルにおいては無意味だった、患者の人生の中でこの病気はどんな意味を持っているのかという問題に対する手がかりを、患者の愁訴は提供してくれる。患者の無言の身体から医者が情報を引き出すという、受動的な立場から、医者との相互作用を通じて臨床を構成するという役割を患者がになうようになる。
この論文が描く20世紀後半の「患者のエンパワメント」と「臨床医学の第二革命」の記述を読んで、実はいつも疑問に思っていることがある。この論文が素材にしているのは20世紀後半のイギリスの話である。アメリカでも事情は似ているだろう。日本はどうなのだろうか?私は、人生の中での意味を探られるような病気にかかったことがないので(笑)、日本のお医者さんたちが、「患者の物語」をどのように捉えるように教育されているのか、知らないのだけれども。