宮廷のデカルト医学

 同じ論文集から、18世紀のプロシアの宮廷の医学について。文献は Geyer-Kordesh, Johanna, “Court Physicians and State Regulation in Eighteenth-Century Prussia”, in Vivian Nutton, ed. Medicine at the Courts of Europe, 1500-1837 (London: Routledge, 1990),

 プロシアを含めたドイツ圏の医学の歴史は明治維新以降の日本の医制のモデルになった重要な領域である。この優れた論文は、18世紀前半のプロシアにおける医療と医学研究、医者の(再)教育の仕組みをトータルに取り上げ、重要なポイントを簡潔に押えている。

 17世紀後半から18世紀前半のプロシアにおいては、国王とその宮廷が、医学の規制、医学研究、そして医学教育に支配的な影響力を持つようになる。まず宮廷医たちが中心になって医師協会 (collegium medicum)を結成し、処方箋がない薬の販売の禁止、医療者の審査など、医療を規制する大きな行政的な権限を持つようになる。宮廷による医療の統制の始まりである。医師協会のトップが、1715年にシュタールがその地位を占めるまでずっと法律家であったことは、医師の地位の低さを表すというよりむしろ、この機能がもともと医師の活動には含まれていなかった行政上のものであることを象徴している。

 この行政の権限に加えて、1700年には医学・科学の研究機関としてのアカデミーが、ライプニッツを中心に結成される。この組織も同じく宮廷のきもいりであったが、こちらの目的は科学研究であった。一方、1710年代には、医者向けの人体解剖の演習のために解剖教室 (theatrum anatomicum)が設立される。これは医者を対象に、解剖の(再)教育を行う施設であった。解剖教室の大きな目標として意識されていたのは、当時のデカルト流の機械論的な身体観を医師たちに教え込むことであった。当時のある医者は「機械論的な医学というのは、我々が解剖から学ぶような仕方で、創造主が作った人体を、精査して説明することである」と言っている。プロシアにおいては、これらの三つの組織が全て宮廷によって支援されているというのが大きな特徴である。

 しかしデカルト流の機械論的な医学は、現実の医療に益することが少なかった。臨床にとっては、むしろシュタール流の医学の方が強力であった。シュタール派の臨床の特徴をよく現しているのが、「臨床観察」(observationes clinicae) と呼ばれたジャンルの病気の記述である。そこでは、機械論のそれとははっきり異なった形で、人体と病気が理解されていた。「臨床観察」の病気観によれば、人体の内部は、整序された機械的な空間ではなく、人体に宿る霊的な原理の働きによって、我々の意表を突くような病気の「変転」があり「ムーヴメント」がある空間であった。その病気の不可思議な運動のパターンを記述しようとしたのが「臨床観察」というジャンルの目標であった。(同業者の皆さんは、「ああ、あれか」と思っただろうが、ドゥーデンのシュトルヒはこのジャンルの資料である。)