『世界の中心で、愛を叫ぶ』

必要があって、片山恭一『世界の中心で、愛を叫ぶ』を読む。アマゾンの古書で1円で買った。

 高校生の女の子(アキ)が白血病で死ぬのを、彼女の恋人の同級生の男の子(朔太郎)が語るという構成の小説。女の子も男の子も、どこにでもいる普通の平凡な高校生で、高校生らしい思想を語り、高校生らしい行動をし、高校生ならではのウィットに富んだ会話をする。それに影響されたのか、語り手のお祖父さんも、結ばれなかった昔の恋人の遺骨を墓を暴いて取ってくるという、高校生じみたことをする。(ちなみに、このお祖父さんの恋人は、若い頃に結核に罹ったが、ストレプトマイシンで治った。結核と白血病という二つの病気の系譜的なつながりを象徴するコメントとして憶えておくと役に立つ。)

 女性の主人公のアキは、命を落とすような病気だから無力なのは当たり前だけれども、それ以上に総じて「おとなしい」キャラクターで、男性主人公の愛によってのみ存在しているような印象を受ける。愛されることだけから存在ができているような、エーテルのような印象を受ける登場人物である。そのあたりが「純愛」キャラクターなんだろう(笑)

上でも少し触れたけれども、重要な小道具が、遺骨である。遺骨と言っても、形がなくなって白い灰のようになったものである。お祖父さんの恋人の遺骨と、アキの遺骨は、この小説の中心的なテーマをなしている。火によって穢れを清められ、形すら失った白い灰は、死者の記憶という、現代でこの上なく神聖なものになったものを担う聖遺物としてふさわしいのだろうか。 一昨日に書いたけど、中世のヨーロッパなら、アキの体は燻製のハムになっていたのかもしれない。

 純愛にふさわしく清められたアキの遺骨は、朔太郎にとって彼女のアイデンティティであった。だから、小説ではアキは骨髄移植を受けなかったのだろうか。特に、現在の骨髄バンクの仕組みを通じて、徹底的に匿名化されたドナーから骨髄を移植されていたら、アキの遺骨には、それこそどこの馬の骨とも分らない人間の骨が混じることになってしまう。