明治期の日本の刑法は「堕胎罪」を定め、妊娠中絶をした女性や医師などを罰してきたが、大正から昭和戦前期にかけてこの是非が激しい議論の対象になり、議論が百出した。その中で、女性運動家として有名な平塚らいてうが、避妊と妊娠中絶(産児制限)を肯定したことは今では広く知られている。(きっと、この論文を初めとする先駆的な研究のおかげだろう。)らいてうのロジックは、まず生殖とそれにまつわる選択の問題を、個人という領域の水準を超えて、生殖は社会と国家の問題であるとしたうえで、その中で女性の主体的な母性を称揚するものであった。
しかし、同時代の思想家たちの中には、全く別の経路で産児制限を唱えたものもいた。この論文で、らいてうの思想の対照として上げられているのは社会運動家であり、産児小説運動の旗手であった山本宣治の思想である。山本は、生殖は個人の自由の問題であるとする個人主義から出発して産児調節を正当化し、生殖の公的なアスペクトから出発したらいてうと対照をなす。そして、山本が社会主義よりの産児制限運動を進めたのに対し、らいてうの産児制限思想は、国家主義と、優良な国民を作るための優生運動に接近していった。