ロックフェラー財団によるメキシコの鉤虫コントロール

必要があって、ロックフェラー財団が1910年代から始めたメキシコの鉤虫コントロールの論文を読む。重要な論点をクリスプに示した優れた論文。文献は、Birn, Anne Emanuelle, “Public Health or Public Menace? The Rockefeller Foundation and Public Health in Mexico, 1920-1950”, Voluntas, 7(1996), 35-56.

私的な慈善団体でありながら、その巨額の資金で20世紀前半の国際的な保健運動に決定的な影響を与えたロックフェラー財団がメキシコで行った鉤虫対策を分析した論文。財団の鉤虫への興味は、1909年にはじまる。財団はこの年に、アメリカ南部の11の州を調査して、地方政府の衛生課やさまざまな協会や教会組織と連携して鉤虫症の対策を始めた。メキシコにおける鉤虫対策はこの延長で1923年にメキシコ政府との間で合意に達し、そこでロックフェラー財団は、「最小限に金を出して、最大限に口を出す」システムを作り上げた。すなわち、財団は専門家を派遣してアドヴァイスを与え、財団が最善と考える方式とシステムで鉤虫症対策を行い、その費用の大半はメキシコ側が負担するというものであった。(財団の支出は全体の1/6程度であった)この方式を、当時革命を達成してナショナリスティックであったメキシコ政府が受け入れた理由は、メキシコ側、特に西洋で教育を受けたエリートたちにとって、ロックフェラーのプログラムを受け入れることは、国際的で専門的・技術的な進歩にのることで国民を近代化することを意味していたからであった。目の前に約束された近代化への欲求が、国民主義的な関心にまさったのである。

ひとたびこのプログラムが始まると、さまざまな点でロックフェラーはイニシアティヴをとった。たとえば、対策の開始に先立って罹患率などを調査したロックフェラーの調査官は、アメリカの南部に比べてむしろ罹患率は低いことを発見した。疫学的に言って、鉤虫はメキシコにとって最重要な課題ではなかったが、そのコントロールを通じて、メキシコの衛生行政と一般民衆の間に、病気を認識させ、コストは低く抑えて、しかし先端科学と専門的な知識を通じてそれを征服することが可能であるという信念を植えつけることが重要であると判断された。(科学的には素朴でコストが掛かる下水道建設による下痢症の克服などは、ロックフェラーにとって魅力的な素材ではなかった。)鉤虫症による超過罹患と超過死亡はその後も財団とメキシコ政府によって強調されるが、この論文の筆者は、前者は誇張され、後者は虚偽といってもよいと断じている。

こうの鉤虫症対策は、当初は移動保健チームによって行われていた。チームは、さまざまな教育的な手段を通じて、子供たちを中心に、靴をはいて鉤虫が体内に侵入するのを防ぎ、簡易便所を定めてそこに脱糞するように呼びかけた。このキャンペーンは効果を挙げたが、一方でこの移動チームを地元に定着させて保健所(のようなものだと思う)を作ろうとしたときに、さまざまな反対にあった。地元の伝統的な治療師は、霊的な治療と分離された西洋型・近代型の健康理念に批判し、意外なことに、地元の開業医たちも、保健所は自分たちの客を減らすだけでなく、人々にアメリカ直輸入の先端技術への需要を植え付けて自分たちへの需要を減らすことになると反対した。この反対に対して、財団は地元の治療師は無視する一方で地元の産婆を取り込むことを図り、産婆を教育して道具を与え母子衛生を教えるなどして、地域の医療の有力な協力者とした。