飛騨の過去帳


有名な飛騨の「O寺院」の過去帳を使った英語論文をチェックする。文献は、Jannetta, Ann Bowman and Samuel Preston, “Two Centuries of Mortality Change in Central Japan: the Evidence from a Temple Death Register”, Population Studies, 45(1991), 417-436. もとになっているデータなどは、須田圭三の名著『飛騨O寺院過去帳の研究』からそっくり取られたものだけれども、須田の書物は詳密すぎてあまりに長大なうえ、現在ではかなり手に入りにくく(おそらく出版当時も手に入りにくかったと思われる)、外国人の日本研究者は、須田の書物ではなくてこの論文を引くことが多いのがちょっと残念である。

大事なポイントの一つは、死亡率の低下は明治以降に起きたという話である。その中でも乳幼児と子供の死亡率の低下をもたらしたのは種痘であり、それ以外の要因は働いていないというシンプルな結論が導かれている。その根拠はアップした図である。これは乳児死亡率(実線)と1歳から9歳の子供の死亡率(点線)を年毎に表している。変化は、飛騨高山に種痘が導入された1885年を境に起きている。この時期に死亡率は劇的に下がり、そして以前の激しい上下がある死亡率のパターンから、比較的低い平坦なパターンへと移行する。このパターンは1950年近辺まで続き、それ以後は急激に減少する。最後の変化が抗生物質によるものであることは疑いない。明治維新から第二次大戦の敗戦まで、子供の死亡率を実質的に改善するのに役に立ったのが種痘だけだったというのは、その時代の日本人の「健康ブーム」と呼べるものを考えるとちょっと悲しい話けれども、飛騨ではそうだったんだろうな。

画像は本論文よりと、18世紀に人痘が導入されたころのスウェーデンの様子。 たしかに、鋭く高いピークが頻発するパターンから、そのピークがなくなったものへと移行するあたりが似ている。 でも、全国グラフと、ひとつの村のグラフが似ているって、なんか釈然としない。