ロンドンの天然痘の衰退

必要があって、19世紀ロンドンの天然痘の衰退を論じた論文を読む。Hardy, Anne, “Smallpox in London: factors in the Decline of the Disease in the Nineteenth Century”, Medical History, 27(1983), 111-138. この重要な論文をまだ読んでいなかった。

天然痘の衰退と最終的な根絶にいたるまでの一つの主役はもちろん種痘であって、その重要性は贅言を要しない。しかし、種痘が導入されてからの天然痘の衰退を見ると、種痘以外のファクターが天然痘による死亡の減少に大きく貢献していると考えることができる。一つが、先日も触れた毒性の変化である。これは複雑で明確なパターンを取り出しにくいが、19世紀の間、毒性が強い天然痘の流行は時折あらわれていた。種痘については、1848年に初の任意の種痘の法律ができて、その後何回かにわたって強制種痘の法律ができたが、これらに対する反感と明確な反対は根強く、一番成功した1870年代においても5%前後の漏れが存在しており、特に移民や貧民が多いロンドンでは天然痘による死亡が多かった。

この状況で天然痘の死亡率を下げるのに重要であったのは種痘以外の方法であった。一つが、「レスター方式」と呼ばれる、天然痘に罹患した患者を速やかに隔離する方法である。このための行政的な構造が整備されて1870年代から実施された。もう一つが、外国からの天然痘の侵入を防ぐために、港湾に検疫を置いたことである。世界的な人の移動が活発になり、東欧からの移民も増えていた時代に、危機感が高まり、港湾検疫が組織的に行われるようになったことは、ロンドンの天然痘の死亡率が急速に低下していき、19世紀末にはついには地方部を下回るようになったことに貢献した。

天然痘の根絶への道は種痘で終わったわけではない」というのは、WHOの根絶でも証明されたことであったが、それを歴史で示した仕事で、地味だけれども、本質的な問題を明らかにしている。