二つの天然痘

必要があって、ヨーロッパの天然痘についての歴史疫学の傑作の論文を読みなおす。文献は、Carmichael, Ann G. and Arthur M. Silverstein, “Smallpox in Europe before the Seventeenth Century: Virulent Killer or Benign Disease?”, Journal of the History of Medicine and Allied Sciences, 42(1987), 147-168.

議論のコアはシンプルで、ヨーロッパにおいて、16世紀の後半近辺に、それまで一般的であった弱毒性天然痘から強毒性の天然痘への移行があった、というものである。天然痘に強毒性のもの(variola major)と弱毒性のもの(variola minor)があり、その中間の色々なものもあることはよく知られている。前者の致死率は近代のデータで20-30%、後者は1%以下である。致死率が低い感染症を歴史的に特定することは非常に難しく、また弱毒性のものが特定されたのは20世紀であるから、すでに種痘が疫学に大きな影響を与えていた時代であり、弱毒性天然痘の流行について歴史的に意味がある洞察を得るのは難しいが、この論文は、広範・緻密なリサーチから得た断片的な証拠に適切な解釈を当てはめて、部分的には非常に説得力が高い議論を展開している。

16世紀以前にヨーロッパに存在した天然痘弱毒性のものが圧倒的に多かった。流行は比較的頻繁にあったようだが、それらの死者は少なかった。フィレンツェでは1420年代から1450年代まで3回の流行が記録されている(1425-6, 1430, 1439)が、この三回の流行での死者の合計は84人、ロンドンのある教区では1574年から98年の間に天然痘による死者は12人しかいない。もちろん歴史的な死因データだから不完全だが、人口が4万人程度のフィレンツェで30年間に天然痘の死者が100人足らずというのは、強毒性の天然痘の流行では、いくらなんでもありえない話である。また、当時の医者の天然痘についての記述は総じて少なく、恐怖感といったものが薄く、むしろ子供が罹患して、その後の健康を確保するという利益を強調するものであった。天然痘のあとに発生する「あばた」についての記述も少なかった。 

しかし、16世紀の半ばくらいから、天然痘の記載が多くなる。これは、死者数が増えたことを意味するだろう。また致死率が高い天然痘が記載されるようになる。1544年のナポリの流行では、「天然痘にかかって生き延びた子供はほとんどおらず、5,000人から6,000人が死んだ」と記載されている。1570年から71年のヴェネツィアの流行では10,000人が死んだと記されている。また、ロンドンでは1629年から有名な死亡表 (Bills of mortality)が発行されるが、それを集計すると、4年以内の流行があるが、流行年以外の死亡率は確実に上昇している。(残念ながら、流行年の死亡率がなぜ上昇しなかったのかという鍵になる問いに対する答えはない。)この天然痘の強毒化を反映して、医者たちは天然痘について頻繁に、そして恐ろしい病気として記すようになり、また、特に女性の美しさを決定的に損なう「あばた」についての言及も増える。有名な『危険な関係』のメルトイユのあばたは、この脈絡で成立するプロット上の仕掛けである。

何がヨーロッパにおける天然痘の強毒化をもたらしたのかという問題については、残念ながら明快な解答は得られない。ひとつ気をつけなければならないのは、同時期の新大陸では、強毒性の天然痘と考えられるものによって、原住民の殲滅が進んでいたことである。私は、新大陸の感染がたやすい状況で優勢になった強毒性の天然痘がヨーロッパに帰ってきたという「コロンブスの贈答返し」(笑)だったら面白いなと思うけれども、そのシナリオは難しいようである。