沖縄と南西諸島の天然痘

必要があって、近世の沖縄とその周辺の天然痘を調べた論文を読む。文献は、小林茂「近世の南西諸島における天然痘の流行パターンと人痘法の施行」『歴史地理学』42(2000), no.197, 47-63.

平安時代には30年に一度来襲しては大きな爪あとを残した天然痘も、江戸時代には、日本のほとんどの地域で、数年に一度やってきて、おもに小児がかかる病気になっていた。もちろん罹れば致死率は高いが、子供だけがかかる流行と、大人もかかる流行とでは、意味がまるで違う。前者では、親が悲しんだりはらはらしたりするが、後者は、ある社会の危機になる。この「小児病化」は、一度罹ると終生免疫ができる天然痘の仕組みと、世界の人口が増え都市化が進み交通が密になっていったという、この数千年の人間文明の傾向が組み合わさって成立したものである。

この小児病化がまだ成立していなかったのが、周縁の地域であった。北の周縁である北海道では、天然痘が進入してアイヌに一方的な打撃を与えて、アイヌの減少に拍車をかけていた。南の周縁部である沖縄と沖縄周辺の島々においても、同じようなことがあったかというと、それがちょっと違う。天然痘がやってくる間隔でいうと、八重山諸島、徳之島、喜界島などもだいたい30年くらいである。徳之島でいうと、1707年、1740年、1767年、1790年と流行している。この間隔だと、一度の流行で、島の人口の半分前後が罹患することになる。村の人口の半分が数週間にわたって、ほぼ一斉に重い病気で寝込み、その5%から10%が死亡する(致死率にはかなりのばらつきがあった)という事態は、島の生活に大きな影響を与える。天然痘の流行があった年と、飢饉があった年が一致するという、天然痘が襲来型であった社会に特徴的な現象も見られる。その意味で、沖縄周辺の諸島は、北海道と同じ、襲来型の天然痘のレジームの中にいる地域であった。

しかし、この地域は、北海道のアイヌたちが高度な医学知識から孤立していたのに対し、少なくとも国家の指導者たちは、日本や中国の文化圏が交錯する、高水準で最先端の医療知識にふれる機会が格段に多かった。有名な話だが、中国から学んで人痘が行われたのは、琉球のほうが日本のいわゆる本土よりも早い。緒方春朔の人痘が1790年であったのに対し、琉球では1766年と、一世代も早い。また、近代的な意味での検疫も沖縄諸島では組織的に行われており、八重山や奄美では、沖縄本島や中国で流行があって、そこから帰島する場合には、しばらくの間離れ島で隔離し、そこで全快してから帰ることが定められていた。また、中国に漂着した八重山の漂流民が天然痘にかかると危険なので、隔離されたり、「うえぼうそう」を受けたりするというテクニックも行われていた。

近世沖縄の南西諸島は、孤立した島嶼社会というイメージどおり、襲来型の天然痘のレジームの中にいたことは事実である。しかし、そこでは、洗練された高度な医学が国家によって導入されており、そのレジームの中で天然痘に処する方策が採られていた。エゾ地のアイヌたちが、天然痘の流行に際して「山に逃げた」のとは大きく違った方法だった。