『16・17世紀イエズス会日本報告集』松田毅一監訳(東京:同朋社、1987)より、たまたま天草の天然痘の流行に居合わせて、悲惨さに心を痛めると同時に、内心ほくそ笑むイエズス会士たちの姿が垣間見えたので記事にする。「内心ほくそ笑む」というのは穏やかな表現ではないし、適切な言葉ではないかもしれない。イエズス会自体を悪しざまに言うと取られるのは本意ではないが、疫病による大被害を記述する筆致には、まぎれもない興奮と満足がある。
中南米のアズテカ帝国やインカ帝国がスペイン人たちによって破壊され、ヨーロッパが中南米を支配したときに、天然痘が重要な役割を果たしたことは、当時から知られていた。激しい疫病に見舞われた社会は、疫病自体のインパクトをこうむるだけではなく、宗教的・宇宙論的な動揺を経験する。改宗させるには絶好のチャンスだといってよい。日本にきたイエズス会士も天草の天然痘を目撃して、このように書いている。
「天草の司祭や修道士たちは今年非常に霊的な前進をはかる機会に恵まれた。なぜなら彼らはそこで大いなる精神的、肉体的苦難を体験したからである。肉体的な苦難とは、天然痘というある重大な疫病によるものである。この疫病はあたかもペストのようにかの土地土地を汚染したので、そのためにおびただしい数の人々が亡くなった。河内浦の城下には修練院がある。その周辺の諸村落で400人以上の人々がなくなった。かの土地(の規模)を考えれば、非常に大きくしかも異常な数字であった。この疫病がふるう猛威はすさまじく、それが発生した家ではほとんどすべての人があの世へ送られてしまった。(中略)彼らを救うべき必要性はいとも大きく、司祭や修道士たちは絶えず各地に分散している病院たちの告白を聞き、彼らを慰めた。このようなことは多大の苦難なしにできることではなかった。このほかに司祭や修道士たちはきわめて意図的にいくつかの村落を司牧する仕事に従事した。[本渡の城下では] 彼らは連続して30日間、新たにかの人々に説教や教理教育を行った。この疫病の流行期に聴聞された告白の回数は3000を超え、二百人を超える人々が結婚し、自らが陥っていたさまざまな罪科から己が一身を解き放った。彼らはまた男女、子供たちとりまぜて400人もの異教徒たちに洗礼を授けた。この人々は肥後やその他の地方の戦乱と苦難を逃れてあらたにそこに移住してきたのである。この結果、天草ではこの全期間を通じて注目すべき成果が生み出された。」
この記述は、当時の天草では天然痘はタイプIIIの流行型、すなわち間隔をあけて襲来するから、免疫を持つ住民が少なく、一度に多くの人間が罹患して広い年齢層にわたって死者が出て深いダメージが与えられることを明確に示している。日本の多くの地域では天然痘はタイプI かタイプ II で、数年間隔で流行があったから、ここに書かれているような激烈な流行にはならない。全10巻以上のこの報告書を全部繰ってみたけれども、イエズス会士が天然痘の流行を記録しているのは、この一箇所だけである。(歴史学者の仕事というのは、そういうものです・・・涙)他の地域における天然痘の流行は、子供が罹るだけで、目立たなかったからであろう。
言うまでもなく、この大惨事は、同時に布教のチャンスでもあった。引用した箇所からも明らかなように、イエズス会はこの好機を捉えて布教のエネルギーを天草に投入し、多くの改宗者を出し、以前からの信者の信仰を堅固なものにしたことに、満足といってよい筆致で書いている。
ちょっと面白いのは、天然痘に蹂躙された天草の村に、多くの移民が来たことである。もちろん、この報告書が書いているように、近隣の地域での戦乱もあったのだろう。しかし、天然痘の大被害を受けて、例えば所有者がいなくなった土地を求めたり、配偶者が死んだものと結婚することを求めたりしてやってきた移民であるとは考えられないだろうか? そうだとすると、ここにあるのは、日本国内で言えば、北海道(蝦夷地)のアイヌが天然痘と梅毒で大打撃を被むるのと平行して移民した和人や、海外の例で言えば、アメリカ大陸の原住民が天然痘などで殲滅されたあとに移住してきたヨーロッパ人・アフリカからの奴隷と、同じような構図になっていないだろうか?