必要があって、近世ロンドンの医療と消費について論じた論文を読む。文献は、Wallis, Patrick, “Consumption, Retailing and Medicine in Early Modern England”, Economic History Review, 61(2008), 26-53.
商業化の進展にともなって、中世の「市」と違った常設的な商店が近世のロンドンには現れていた。その中でも、薬種商の店は、特徴があって高額の資本投下がされた斬新な店構えを持っていた。近世の薬種商といえば我々が思い浮かべる光景、すなわち薬品の名前が書かれた大きな薬の壺が棚に整然と並び、カウンターの上にはワニやサメなどの珍しい動物の剥製が吊下がっている店構えは、この時期に成立した。薬の壺が並んでいるのは、薬の材料から薬を作り出す作業は別の部屋で行われ、調合するばかりになった薬剤を並べるようになったことを意味する。ワニやサメの剥製は、薬種商に自然哲学の文化的オーラを与え、「そこに行くのが楽しくてためになる」空間を作り出した。
著者は、薬種商たちが店構えに「凝った」ことを、面白い仕方で説明している。それは、薬を買うという行為に対する人々の不安を取り除くためであったという。今日では、免許制、監督制、あるいは倫理など、患者が購買するヘルスケアのサービスや商品の安全と質を保証する仕掛けが存在する。しかし、近世のロンドンでは、この仕掛けはまだ弱く、それまで薬を購買することが比較的少なかった人々が、誰が何を調合したのかもよくわからない薬に対して抱く不安と不信感を減ずる仕組みは、個々の店が作り出さねばならなかった。消費社会の歴史研究の中では、消費や商品が購買者に与える「楽しみ」が売り手によって強調された側面が研究されているが、近世の薬種商においては、楽しみよりも安心を作り出すことが大切であったという。