『食道楽』


必要があって村井弦斎『食道楽』を読む。黒岩比佐子の解説で岩波文庫版が出ている。 

学生に教えてもらった本で、明治36年1月から1年間『報知新聞』に連載された、当時の花形人気コラムで、順次単行本化されるや、6ヶ月で30版を超える大ベストセラーになった。この作品をもとにした歌舞伎も上演され、主人公の名前を冠した食堂も開店したという。

一応恋愛小説の体裁を取っているが、実体は食物論と言っていい。恋に破れて打ち沈んでいたはずの主人公が、水を向けられるとサンドイッチやカップケーキの作り方を、連載で1週間分くらいにわたる長広舌で繰り広げてしまう。

全体のつくりは、重要な順に、1) 料理百科事典、2) 家政学の教科書、3) グルメのうんちく、4) 当時の時の話題(女子教育とか血族結婚論)についての論評、5) 本書の主人公である、科学と衛生に基づく食物論の理論家にして実践者、中川兄と、その妹おとわが、それぞれ思われた人と結ばれて二組のカップルの誕生が示唆されて終わる恋愛小説 という要素がまざってできている。栄養学は議論を支える重要な柱だし、西洋医学と漢方医学を緩く折衷させたような医学的な説明もふんだんに使われていて、明治後期の通俗医学を分析するには最適である。

一つ面白かったのが、食品衛生について、村井が言っていること - というか、言っていないことである。ホルマリンを混ぜた酒や、水で薄めた牛乳や、舶来の塩の瓶に国産のものをつめかえて売るなど、いまなら産地偽装や偽装表示や毒物混入と呼ばれるような例はもちろん沢山出てくる。それに対して、これは国家や市当局の責任ではなく、いちいち消費者として自己防衛しなければならないことが説かれている。たとえば酒にホルマリンやサリチル酸が入っていないか見抜く「コロール化鉄」の試薬や、牛乳の良否を見分ける「フェーゼル氏検乳器」などである。前者は薬局で一瓶二銭程度、後者は医療器械店で一円七十銭ほどだというが、これらの試薬や器械を買って家に備えておくことが熱烈に勧められている。食品衛生の責任は、公権力ではなくて個人が担い、酒にコロール化鉄をたらして「この酒には毒物混入!」と得意満面になるのが「文明」だと思い込んでいたかと思うと、ちょっとおかしい。

画像は同書のカバー。ここに描かれている台所(大隈伯爵の台所だそうだ)で作られる料理というのは、それは明治の読者にとってはファンタジーであり、そのファンタジーに近づくように努力することが、科学であり道徳であると耳元でささやく本は、それは売れるだろうな。