必要があって、戦前朝鮮のモルヒネ中毒について調べた当時の論文を読む。文献は、久保喜代二「もるひね中毒」『精神神経学雑誌』40(1936), 661-697.
京城帝国大学の教授であった久保喜代二が、昭和11年に第35回日本精神神経学会の「宿題報告」として行ったものをまとめた論文。「京畿道麻薬中毒者治療所」の医師の協力と、同治療所の患者の調査に基づいていて、多くの貴重な情報を含んでいる。
植民地統治下の朝鮮では、大正9年にモルヒネとコカインを取りしまる法令が出された。その理由は、大正8年のコレラ大流行のときに、密売者が「霊妙なる薬効」があるとして民衆にモルヒネを売ったからであると書かれている。いきなり全面的に信じることはできないが、少なくとも一片の真理はある観察だろう。これはちょっと面白い。昭和5年に総督府は麻薬類中毒者登録規定というのを出して、中毒者の治療を試みたが、再中毒が後を絶たないため、昭和9年に朝鮮麻薬中毒予防協会を設立し、10年には取締令を出したところ、登録中毒者の数は昭和2年の5000人以上から434人まで激減したが、これは久保も書いているように「登録中毒者を片端より強制収容して離毒せしめたにすぎない」。
この論文には、出所は明らかでないけれども、日本国内(「内地」)で調べた統計も掲載されていて、朝鮮のモルヒネ中毒と内地のそれの違いは一目瞭然である。内地の中毒者307名のうち、職業別で見るともっとも多いのはもちろん医師の78名(25.4%)で、薬剤師や医師の家族などとあわせると、105人(34.2%)が「医療関係者およびその家族」で閉められている。内地の中毒者は教育程度も高く、中等学校卒業以上が7割近くを占めている。一方、朝鮮の中毒者は労働者や教育程度が低いものによって占められている。
そして、この違いが、同時代の日本で麻薬類の依存症を「問題」として作り出したものであった。久保は、それまで日本にも中毒患者は存在したが、彼らは比較的社会的地位が高いもので、「格別目立つほどの社会的困難を惹起するまでに至らなかった」のに対し、内地に出稼ぎして東京や大阪でスラムを形成している朝鮮人の中毒は、麻薬を買う金ほしさに犯罪などを犯すようになり、あるいは医師や薬剤師を強要したりするなど、「善良なる市民の蒙る迷惑が一方ならぬものになった」せいで、麻薬問題が注目を集めるようになったという。先日読んだアメリカの依存症問題の本に書いてあったのと全く同じことが書いてあった。これは、もちろん久保の言うことが正しいとかそういう問題ではなく、どこかに起源があるのだろう。そして、無責任な放言をさせていただくと、その起源になる思考法は、これは「麻薬問題の社会的構築」の視点のプロトタイプじゃないのだろうか?