パリ大学とパラケルスス主義

必要があって、初期近代フランスの医学史についてのスタンダードな教科書を読む。文献は、Brockliss, Laurence and Colin Jones, The Medical World of Early Modern France (Oxford: Oxford University Press, 1997). 

二人の専門家が共著で書いた、1500年から1800年までのフランスの医学史のあらゆる側面をカバーしたスタンダードな書物。研究文献とオリジナルリサーチを組み合わせていて、教科書風の無難な記述でなく、彼らの独自の解釈というべきものが前面に出ていて、ときどき不安になるけれども、とにかく分かりやすい。また、非正規の治療者だとか、医者と患者などの、比較的新しい医学史のトピックを、高い水準で解説しているところも素晴らしい。こういう書物が、日本の医学史についても必要だとつくづく思う。

読んだのはパラケルスス主義の部分。宗教的対立をくっきりと出して、フランスにおいてはパラケルスス主義はプロテスタントに受け入れられたこと、そして、伝統的なガレノス主義を奉ずるパリの医学部は、同じく伝統を奉ずるパリの高等法院の協力もあって、パラケルスス主義と、それに基づいた治療法(たとえばアンチモンの使用)を禁止する態度をとったこと、などを論じている。(さすが実力者の二人だけあって、1566年にパリ大学は高等法院を通じて、金属由来の薬でパラケルスス派のシンボルでもあったアンチモニーの使用を禁ずることに成功したことなど、telling evidence の利用がうまい。)

しかし、この保守的エリートのガレニズムと、急進的異端のパラケルスス主義という明確な二分法は、二つの要素によって流動的になった。一つはフランスの宮廷における動きである。プロテスタントであり、そのこじんまりとした宮廷でパラケルスス派の医者を庇護していたナヴァール公アンリが1589年にフランス王位についたことで、パリの医学界
に緊張がもたらされる。国王や貴族たちに私的に仕える侍医たちと、医療の規制など半ば公的な機能を持つ医療団体とが、医学における異なった哲学を信奉しているという事態になったからである。ことに、医療がクライアント―パトロンに依存し、国王の侍医は大学教授よりもステータスが高かった時代においては、身分が高いクライアントが望む医療を提供する圧力が医者たちにかかっており、パリの医学部の教授たちといえども、この圧力を無視することはできなかった。

もう一つは、ガレニズム自体の中に書き込まれているフレキシビリティである。ガレノス自身、意外に謙虚なところがあって(笑)、自分の医学は完成の途上にあるものだと随所で発言していた。このガレニズムのフレキシビリティをたくみに使って、折衷的でしかも新しい発展に対して開かれた医学の体系を構築していた医学者がいた。それがジャン・フェルネルである。フェルネルはガレニズムをもとにして独自の改革を加え、オカルト的な力を認めるなどパラケルスス派や、同時代の自然魔術の中心的な論点を取り入れた医学の体系を作り上げ、大きな影響力を持った。しかも、これはガレノスや古典医学の成果を墨守するものでなく、新しい治療法や薬物の発見に開かれているものであった。