進化論的歴史

必要があって、進化論の発想を取り込んだ歴史学を提唱したエッセイを読む。文献は、Russell, Edmund, “Evolutionary History: Prospectus for a New Field”, Environmental History, 8(2003), 204-228.

人文社会系の学者の多くが進化論を警戒している。一つは優生学の暗い影がある。優生学に適用された進化論に与する学者はいたとしても少ないだろう。また、社会進化論や進化論心理学などの還元主義的な議論の仕方は人文社会科学になじまないものが多い。個人的な経験だけで言わせてもらうと、進化論心理学などで、特に一般向けに書かれた本や雑誌記事などは、酒の上での悪趣味な冗談にはいいかもしれないが、歴史学でまじめに取り上げる気にならないものが多い。ウィノナ・ライダーは、つぶらな黒目がちの瞳が、親の「守ってやりたい」心理を刺激するから良い女優だったわけではないし、スカーレット・ヨハンソンは、多産系で自分の遺伝子をたくさん残してくれそうだから魅かれるわけではない。どちらの女優についても色々言いたいことはあるけれども、話を戻すと(笑)、そのような事情で、歴史学者には人気がない進化論を、もっと積極的に歴史に取り込もうとしている論文。

話のポイントは、人間が作り出した(anthropogenic)進化という発想である。人間は、地球上のほかの生物にとって、非常に重要な進化の原因であった。植物や動物の品種改良のように、意図して引き起こした進化もあるし、耐性菌やDDT耐性昆虫のように意図せずに起こした歓迎せざる進化もある。現在の人間は、自分が進化の原因となった穀物や家畜なしでは生存できないし、逆に、これらの穀物や家畜も人間なしでは生存できない。オオカミは絶滅の危機に瀕しているが、オオカミの中で、イヌになることを「選んだ」ものは、ペットとして人間にほぼ全面的に依存して世界中で大繁栄しているし、人間も(たぶん)ペットなしでは生きられなくなっている。人間の歴史の中で、「他の生物を進化させること」は、非常に大きな意味を持ってきた。

この「他の生物の進化の構造を決定する」という行為は、これまで歴史学の中心的な主題だったさまざまな力によって成立させられている。品種改良のように資本主義の中での商品生産であり、それらの生物を栽培繁殖する土地利用であり、自然環境の改変であり、植民地経営であり、ある遺伝子を持つ生物を(例えばキナノキとかルバーブとか)、国境を越えて別の環境に移動させるジオポリティックスであり、それを研究する科学技術や思想の問題である。こういう枠組みで理解すると、進化論的歴史は、正当にして重要で見過ごされている歴史学の一つの側面である。そして、この視点は、人間の文明のダイナミックスについて、これまでの歴史学が教えてくれなかったことを必ず教えてくれる。

実は、リサーチして書いてみたいとしばらく前から思っていた論文があったけれども、こうやって整理された視点を教えてもらったからには、よし、これはゴーサインだな(笑)