必要があって、近代日本の政治思想史における「自然」という概念の変遷を論じた書物を読む。文献は、J.A. トーマス『近代の再構築―日本政治イデオロギーにおける自然の概念』杉田米行訳(東京:法政大学出版局、2008)
政治思想の中で「自然とは何か」という問題は非常に重要である。だから自然の理解が、政治的な可能性に大きな影響を与える。これまでの日本の政治思想史の記述においては、近代化と自然は二分され対立させられて、「自然」に社会の根拠を求めるのは、右翼とはいかないまでも、伝統主義・保守主義の規範だと考えられてきたと、丸山真男をひいて著者は言う。しかし、日本の近代の政治思想において、自然ははるかに複雑で重要な役割を果たしてきて、「自然」という概念は、さまざまに理解されて、多様な政治形態と結びついてきた。
筆者は、日本の政治思想における自然は、三つの段階を果たしてきたという。第一が、徳川時代の普遍的・階層的な自然観によって統治を正当化する思想、第二が、明治期の生存競争に基づく社会ダーウィニズム、第三が、1930年代以降の日本にユニークであり日本の統治に独自性を与える自然観である。これらの検討を通じて、人間と環境について、自然概念をくりかえし作り変えて公式化していく中で、近代国家のアイデンティティが作られたという。
主に読みたかったところは、1930年代以降の話である。この時期には、常に流動的で西洋のあとを追わなければならない社会ダーウィニズムは放棄され、日本人が共同体として自然と特別密接な関係を持っているという自然観が政治思想の中核におかれた。日本の自然という愛する対象がユニークであり、それを愛する主体である共同体としての日本人もユニークになる。日本には、独特の自然があり、それと独特の関係を結んでいる日本人もユニークなのだ。これは、自然環境に根ざした国粋主義と親和性をもっている自然観であった。
政治思想の歴史について知らないことが多く、自然観についての記述は私が想像していたよりも少なかったので、ちょっと読みにくかったけれども、ある見方をすると、自然観の歴史という比較的新しく、ヒストリオグラフィに乏しい領域の中に、厚みを持つ政治思想史の洗練を持ち込んだとも考えられる。優れた著作だと思う。
徳川時代については、「人々の住む場所と移動範囲を定めることは、統治の基本であった」という。このブログでも何度も書いていて、研究会などで何度も口にしているけれども、いつも冷たくあしらわれている私の「ペット・セオリー」があって(涙)、この空間的な統治形式のゆえに、日本では、コレラがはやっても、原則、人々は逃げ出さなかったのだと思っている。