Sucker Punch / エンジェル・ウォーズ


帰りの飛行機は、往復で月が替わるスケジュールだったから、違う映画を観ることができた。こういうとき、なんとなく得をした気分になる。私が観た映画は、超駄作というのか不思議な魅力を持つB級映画というのか、映画館では絶対に観ないような作品だったから、まあ、得をしたのだろう。

原題は「不意打ち」を意味する Sucker Punch だが、邦題の「エンジェル・ウォーズ」のほうが映画のイメージを的確にとらえている。設定としては、私が観ておかなければならない映画で、舞台は精神病院で、そこに邪悪な義父によって不当に監禁されてロボトミーを受けそうになっている少女が、さまざまな想像力の世界をへめぐりながら仲間と一緒に脱出するという話である。その意味では、ディカプリオの『シャッター・アイランド』に少し似た設定である。想像力の世界へのトリップは、精神病院の中で患者やスタッフによって演じられる演劇という設定になっているから、ペーター・ヴァイスの戯曲や映画『クィルズ』の主題となったサド侯爵を中心とするシャラントンと同じ主題で、精神病院ものの定番である。

しかし、この映画は、ここから話はRPGの世界になっていく。脱出するためには、五つのアイテムをそろえなければならず、そのアイテムを少女たちが想像上のワールドに出向いて行き、敵の闘士やモンスターたちを倒して手に入れていくというストーリーである。主人公の女の子は、金髪に両側にお下げ髪でセーラー服にミニスカート、背中に日本刀を背負って相手と戦うという、ゲームの世界からそのまま出てきたようなキャラクターである。他の女の子は、髪の色や目の色、それに持っている武器が違うというゲームのキャラ設定の文法がそのまま守られている。

まあ、これでいいんだろうなあ。というか、作られてしまったものは、それは史実だから、これでいいというしか仕方がないんだけど。

こう考えることはできないだろうか。不法監禁の告発や、ロボトミーを批判することは、1960年代には一定の政治色を持ち、それとともに言説の「型」を持っていた。ロボトミーが存在したということを語るときには、それを語るにふさわしい深刻さと厳粛さが伴っていた。しかし、それから半世紀たって、これらの主題は、言説の性質を変えてきた。・・・でも、なにかがゲームにとり入れられるって、どういう意味を持つのかな。たとえば、津波から逃げるゲームとか、原発事故から街をすくうゲームとか、そんなものは今の日本では売り出すことは常識的にはできない。そういうことと関係あるのかな。