「ふたりの女」(静岡SPAC公演)

静岡の日本平にある野外劇場で、劇団SPACの公演で唐十造「ふたりの女」を観る。演出はSPACの芸術監督の宮城聡さん。私が30年以上前に最初に観たお芝居の演出も宮城さんだった。

 

今日は、学問とか歴史とか医学史とか、そういういつも書いていることとは無関係な、ある意味で適当なことを書く。

 

「ふたりの女」は1979年に書かれた作品で、日本の精神病院の病床数が増加を続ける時期であると同時に、精神病院の監禁的な機能に対する批判も鮮明になってきた時期であった。その時期に作られた作品であるため、鉄格子がはまった精神病院に監獄のバスティーユを重ねて、革命と解放の主題が背景にあったのだろうか。冒頭に鉄格子の主題、革命の主題、そしてバスチーユとサドの主題が現れる。1970年代には日本語で翻訳も出ていたペーター・ヴァイスの長い名前の作品(いわゆるマラー/サド)も踏まえているのだろう。そして、その鉄格子がはまった精神病院を一日一メートルずつ広げていって、ついには砂浜にいたるイメージ。まさに精神病院の解放である。そこで意地悪な看護婦が「この人たちの内面は広すぎて不自由なんです」という管理の言葉を放つ。

 

一度、オランダの女性の看護師で、精神医療と精神病院の表象を研究している人から聞いたことがあるが、精神病院を舞台にして患者の抑圧とかそういう系列の内容を扱った映画で、悪役は常に看護婦なのだそうだ。ニコルソンの『カッコー』のラチェド看護婦のような、権力と管理の母性的な抑圧の権化が永遠に繰り返されているとのことだった。この看護婦も、脚本だとそういう感じなのかもしれない。

 

そういう話を、宮城さんがすべてをすっちゃらかして(笑)、現代風の作品に仕立ててくれた。精神病院を広げて砂浜に至るという平面的な解放の話をどこかに放り投げて、舞台はできる限り立体的に使われていた。後半は、閉鎖的な精神病院の話というより、三保の松原に降り立った天女と一般人の対話のようだった。六条と光一医師が最後に話す場面は、私が観た舞台の中では、舞台から一番遠くて高い所に立った登場人物との間の劇内の対話だったのかもしれない。

 

役者はすべて良かった。看護婦もよかったし、精神科の医師も、患者の弟もよかった。アオイと六条は一人二役というお約束だけれども、その二人性は強調されるというよりは、むしろあいまいにされていた。きっとあれでよかったのだろう。

 

公演はあと二回予定されている。チケットが見つかるかどうか分からないけれども、サイトは以下の通り。

 

ふたりの女 | SPAC