看護の歴史 (Christopher Maggs)

クリストファー・マグズの看護の歴史を鳥瞰した有名な概説を読み返す。文献は、Christopher Maggs, “A General History of Nursing: 1800-1900”, in Companion Encyclopedia of the History of Medicine, eds. by W.F. Bynum and Roy Porter (London: Routledge, 1992), 1309-1328.

 

1860年から1900年の間に、看護 nursing は急激な変化をとげた。それ以前の看護は、小規模で、訓練されていないものが多く、従事者はフリーランスという特徴を持っていたものが、大規模で、訓練を施し、組織・統制された職業に変化した。数的にも増加し、1861年のセンサスでは nurse と記入しているものは1,000人程度であったが、1901年には70,000人にのぼっていた。

 

訓練の場所として重要であったのは、イングランドでは病院であり、病院も19世紀に劇的に増加・成長した施設である。1800年には約1,000万人の人口に対して一般病院の病床は4,000であったのが、1900年には3,200万人に対して病床は28,0007倍になった。これらは看護婦にとって訓練の場であり、労働の場であった。病院での勤務を辞めたあとは、また伝統的なフリーランスに戻り、患者の自宅や療養所をベースに一人につき幾らという形式で雇用された。これによって、病院を離れた看護の空間にも、新しい訓練を受けた看護婦がもたらされた。イギリスの訓練の場が病院であり、アメリカでは大学や医学校が中心であったことは、両国の看護教育の方向に違いを作り出し、後者では education for excellence を目指したのに対し、前者では最低限押さえなければならないことを教えるという性格があった。

 

看護の歴史の中で伝統的な看護としてしばしば引用されるのがディケンズのセアラ・ギャンプであるが、それと同時に、selfless wives and relatives も描かれていた。ディケンズでいうとコパフィールドのアグネスだろう。

 

背景としての産業革命の重要性が強調されている。より直接的なことは、慈善の改革である。慈善のもともとの起源は、個人の私的な良心と神との間の関係であった。しかし、19世紀には、この個人的良心的な動機が、社会と機構と施設の中で実践に移されるときの合理性・効率性・公正性を強調して、慈善を社会の機構の中にきちんと落とし込むことを目標にした。看護もこのプロセスを通っていき、ナイチンゲールの仕事がそれを象徴している。ナイチンゲールの出発点は神が彼女に語り掛ける声を聴いたことであり、そこから伝統的な宗教的な慈善団体での看護の活動を行い、クリミア戦争を経て(これについては後述)、看護の改革にいたる。その改革は、ヘルスケアのシステムを変革することを目指すものであった。個人的な宗教経験から出発して、社会の中でのシステムを変えることにいたることができるプロセスが、宗教経験と世俗の社会を統治するありかたを変革することが結びついた19世紀の特徴であった。

 

女性の職業であったことも重要である。19世紀の国勢調査は、人口の特徴とその将来を公的な議論の対象として、中産階級の女性における「余剰人口」がどのように解決されるべきかという主題が誕生した。女性は生来的に自然的に看護に向いているのだという議論ももちろん存在したが、次第に、訓練と教育が必要であるという方向の議論となった。

 

ナイチンゲールクリミア戦争の経験は看護の歴史にとって決定的な意味を持っている。クリミア戦争の戦傷者の看護については、「じつは、相対的にいうと、以前よりも進んでいたもので、それほど悪くなかった」というのが主流の解釈になっている。クリミア戦争のイギリス軍の軍医たちが一方的で強圧的で攻撃的なナイチンゲールに対して不快感を持ったのは、その意味において、理解できる過程である。ここでナイチンゲールに勝利をもたらしたのは、もちろん従軍報道である。『タイムズ』はナイチンゲールのミッションを好意的に報道して読者を味方につけ、政府の行動を促す役割をはたした。のちのボーア戦争などにおいても同じ役割を報道が果たした。

 

看護の教師と病院の婦長は中産階級の出身であった。彼女たちが同じ階層の女性を若い看護婦に欲しかったかというと、必ずしもそうではなかった。また、医者との関係も重要で、医学と医療を尊敬しその科学と価値観に従属し、それと同時に、個々の医療者には必ずしも常に従属し尊敬するわけではないという立ち位置を取った。