犯罪と精神医学

必要があって、大正期の精神医学の成立をめぐる言説を分析した優れた研究書を読む。文献は、芹沢一也『<法>から解放される権力―犯罪、狂気、貧困、そして大正デモクラシー』(東京:新曜社、2001)

外敵を倒し、東アジアに帝国を確立し、明治政府の元老支配という体制が困難になった日本は、大正期に新しい形の統治権力を必要とするようになる。そのために、複数の領域の言説を編成する装置が存在するようになる。この言説の編成の中で、精神医学は、司法、救貧、政治と同じ装置の中に組み込まれて正当性を獲得するようになる。そして、これらのいずれの領域においても、法から解放された場所に権力をうちたてることで自らの営みとその対象を再定義しようとするのが大正期の現象である。

精神病者監護法(1900)に象徴されている明治期の精神医学は、精神病者のケアから疎外されていた。当時の精神病者のケアは、危険な精神病者を監禁するものであり、その危険性は振る舞いという可視的な次元で判断されていた。監禁は医学ではなかったし、振る舞いは医者でなくても誰でも見ればわかるものであった。そこには精神医学が入り込む余地がなかった。精神医学は精神病者のケアにとって周縁的な営みであった。

これが、大正期・日露戦争後に、精神医学は新たな編成の中に自らを組み込むようになる。人で言うと呉秀三を中心とした運動である。この新しい編成の核は、当時成立していた新刑法が問題にしていた、犯罪者の人格であり、その根本にある性格(悪性)であり、責任能力であった。これらは精神医学によって診断され問題にされなければならないものであることを、当時の精神医学者たちは主張した。これは、精神医学の新たな正当化のために、精神医学しか判断できない対象を「犯罪者」に求めたことを意味し、精神医学の誕生を支える核心的な対象をつくることであった。これをベースにして、精神医学は自らを拡大し、精神病院を拡大して権力と正当性を獲得していったのである。この精神病院と言うのは、「ひとつの理想的な刑事政策によって社会に設けられた収容施設」だったのである。「精神医学が支配的な実践として現れるためには、それは犯罪の領域と交差する必要があった」と言い換えてもいい。

結論や方法論などについて賛成できない点や反対の点は数多くあるけれども(それらは、近い将来に論じなければならない)、私はいつも優れた書物だと思っている。1994年の博士論文ということは、もう一昔まえの方法論や語り口ということである。それをさしひいても、日本の精神病院の成立と拡大という複雑な事態に、その指導者たちが犯罪精神医学と深い関係を持ったという事実が関連していることは、的確に説得力を持って指摘されている。その意義の評価については、大きく捉えそこなっていると私は思うけれども、それを話すと長くなるからやめておく。