ニコロ・マキアヴェリ『君主論』池田廉訳(東京:中公文庫、1975)
大学の学部生のころに読んだ本だと思う。私が好きな本のひとつで、特に、「運命は人間の活動にどの程度まで力をもっているか、また、運命にはどのようにして抵抗すべきか」というタイトルをもつ25章を時々読む。現在の脱力系の世相には合わないし、違和感をおぼえる内容も多いけれども、私が好きな言葉もたくさんある。「運命は、それに抵抗する力がついていないところに、猛威の矛先を向けるものである」という言葉は、パストゥールの「幸運は準備ができた精神を愛する」という言葉と並んで、私が好きな言葉である。
大学の学部生のころに読んだ本だと思う。私が好きな本のひとつで、特に、「運命は人間の活動にどの程度まで力をもっているか、また、運命にはどのようにして抵抗すべきか」というタイトルをもつ25章を時々読む。現在の脱力系の世相には合わないし、違和感をおぼえる内容も多いけれども、私が好きな言葉もたくさんある。「運命は、それに抵抗する力がついていないところに、猛威の矛先を向けるものである」という言葉は、パストゥールの「幸運は準備ができた精神を愛する」という言葉と並んで、私が好きな言葉である。
運は変化するものである。人が自己流のやり方に固執すれば、運と人の行き方とが合致する場合においては成功するものの、不一致のばあいにおいては、不幸な結末をみるのである。
このあたりは、フィネッスや繊細さを要求する考えである。いま、読み返してみたら、ものすごくマッチョな思想も含まれていた。
私は、用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている、なぜなら、運命の神は女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突き飛ばしたりすることが必要である。運命は、冷静な行き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである。
要するに、運命は女神に似て、若者の友である。つまり、若者は、思慮は深くなく、あらあらしく、きわめて大胆に女を支配するからである。 141-2
ううむ・・・(笑)