貝原益軒『養生訓』

貝原益軒『養生訓・和俗童子訓』石川謙校訂(東京:岩波文庫、1961)
風邪をひいて、久しぶりに寝込んだので、回復期に『養生訓』の冒頭の章を読んでみた。

アナクロニスティックな言い方だけれども、『養生訓』は、身体と健康の自己決定権という考え方と対極にある思想で貫かれている書物であると考えると、分かりやすいと思っている。この身体は「私の」身体であり、それから「私の」利益を引き出すことができるという考えを厳しく排して、儒教の考え方で身体と健康を定義した書物であるといってもよい。まず、身体と命は、天地の「賜物」であり、父母に授けられたものである。であるから、我が身を健康にして長寿を得ることは、「孝」である。我が身の養生が、自分よりも上位のものに対する行為であると定義することからこの書物は始まっている。養生を一字で表現すると「畏」であるという。自分の欲望や気にまかせず、過ちをしないことをこころがけ、天道を恐れて、慎み従い、自分の欲を恐れることである。このことを「心を小さくする」と称している。天地父母という、世界と人の秩序の中に我が身を位置づけ、この秩序を忖度することが養生の要領であるという。養生とは秩序を重んじて自制することである。

秩序の自制の関係は、病気の原因についての議論にも現れる。養生の出発は、我が身をそこなうものをなくすことであり、それは内欲と外邪である。内欲は飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲、言語をほしいままにする欲であり、また七つの情でもある。外邪は天の四気、つまり風・寒・暑・湿である。この外邪にあたって病気となり死ぬのは天命であり、聖賢といえども免れがたい。しかし、内欲は自分で制御できるものであり、これを制御して内気が充実していれば、外邪に侵されることも稀になる。つまり、病気の原因が「天命」と「我が身のとが」に分かれており、後者が重視されている。天命と人事の双方を組み合わせ、天命の存在を認めつつ、人事によって健康になり、天命からの影響を少なくすることすらできるという思想である。これは、人間の行為によって寿命を伸ばすことができるというオプティミズムであり、それと同時に、そのためには自ら慎まなければならないという自己抑制の思想でもある。

養生論でもう一つ重要なことは、この「臆病に生きる」という考えと、武士の生活、そして武士以外の身分の者の生活が、完全に両立可能であると示されたことである。命を大切にする考えは、身を捨てて命を惜しまないことを尊ぶ武士の思想と齟齬がある。益軒は、いざという時のために、日ごろは命を大切にすることこそが武士の心得という。また、養生というのは、安閑無事や隠居老人の生き方ではないという。養生は、心は静かに保ちながら、身を動かす生き方であり、放埓な心はもちろん、無為も、かえって養生を害する。だから、武士だけでなく、どの身分にとっても、心を静かに保ちながら、家業に精を出して体を動かすことが養生そのものである。すべての階級にとって、道徳と勤労と健康を統合した、見事な議論であると思う。