アリス・ジェイムズの乳がん

James, Alice, The Diary of Alice James, ed. By Leon Edel (London: Rupert Hart-Davis, 1965).

心理学者・哲学者のウィリアム・ジェイムズと、小説家のヘンリーを兄にもったアリス・ジェイムズは、5人兄弟の末っ子でただひとりの女の子であった。彼女はずっと病弱であったが、健康をとりもどすためにイングランドにきて療養生活を送り、しばらくしてから乳がんであると診断される。イングランドに到着してから日記を書き始め、自分ががんであると知ってからも日記は継続された。兄ヘンリーも暮らすロンドンについての鋭利な評論と、死の数日前まで書き綴られた闘病記がミックスされたようなすぐれた作品になっている。同じ乳がんの治療を受けて『隠喩としての病』という傑作を書いたスーザン・ソンタグは、アリス・ジェイムズを主人公にした劇を書いているそうで、私は読んだことがないが、きっと重要な作品だと思う。

ちなみに、この日記は、もともとアリスは死後に出版するつもりであったらしく、付添をしていた女性が手稿から版を起こして、四部だけ印刷して、兄弟らに配った。しかし、この日記では、名前を出して私人について自由に語られ、ヘンリー・ジェイムズは「恐ろしいことだ」といって、この日記がさらに知られるのをできるだけ防いだ。特に、そこには、ヘンリーが妹のお見舞いにいって、ちょっと色をつけながら気楽に話していたロンドンの文人たちの社交生活が描かれていたから、ヘンリーとしては責任を感じるという事情もあった。そういった理由で、この日記が出版されたのは、死後40年以上たった1934年であり、さらにそれから30年以上たって、より丁寧に校訂したものが出版された。

1891年6月5日
腫瘍ができても道徳心は堅固に持っていられると思っていたが、実際に腫瘍になると、それは、おぞましいものだった。わりとよくあるもので、悪意はないのだが、私の思考を破壊した。

1891年12月4日
不信実な悪魔であるモルフィアは、痛みを消す一方で、眠りを破壊し、あらゆる恐ろしい神経病の苦しみをもたらすのだが、3週間か4週間前に、その非道さを我々にむきだしにした。Kと私は、これまでにないどん底を味わった。催眠を用いるタッキー博士にかかったのもそういう理由である。

1892年2月2日
この長いゆっくりとした死が、私に教訓をもたらしてくれるのは疑いない。しかし、そこには興奮がないので失望する。「自然さ」と称されるものが、極限まで推し進められて、いろいろな活動が一つ一つ禁止されなくなっていくのである。

1892年2月29日
看護婦から聞いた話。あるとき、病院に、ひどい口を利く土方の労働者がやってきて、クロロホルムをかがされるということになった。彼女と助手は、麻酔をかけられると彼がどんなひどいことを言うのか不安だったので、もし汚い言葉をはいたら口をふさごうとしてハンカチをもって待っていたのだが、意に反して、彼は麻酔が効くとイエスについて語り始めた。

1892年3月4日(最後のエントリー、死は3月6日)
私は、身体の痛みという厳しい石臼のなかでゆっくりとひきつぶされている。二晩ほど、Kに、致死の薬を与えてくれるよう頼んだほどであった。しかし、そのような見慣れぬ死に方を進むことはためらわれ、一秒ずつ苦しみながら進むありきたりの道を選んだ。私を生き続けさせている小さな金槌は、もうじきその仕事を終えるだろう。これがどうなろうと、身体の痛みというのは、それが大きいものであっても、もみがらが落ちるように心から消えていく。しかし、道徳上の不整合や心の恐れは、焼き付けられるのだ。これらは、つきそいのキャサリンがコントロールしてくれているので、私は恐れていない。