江戸研究者で随筆の名手である三田村鳶魚に「恋の病」という医学史エッセイの傑作がある。初出は『医学及医政』という雑誌の1919年11月号で、「鳶魚江戸文庫」の31巻『近松の心中物・女の流行』に収められている。
労瘵(ろうさい)という疾病について縦横に論じた随筆である。博覧強記と自在な引用は言うまでもないし、医学や医学史の専門家ではないと書きながら、それゆえにかえって豊かな議論を作り出している。
「ろうさい」の症状だけでなく、音楽、風俗、遺伝、治療などの多様な側面から、江戸時代におけるこの疾病の文化社会的な形成を論じている。そもそも「ろうさい」は唄のジャンルとして知られ、低い細い寂しい声の幽寂の夜に透破するような唄、霜にやつれた蟋蟀のような唄、陰気であるがしみじみとした調子があり、痛ましさに耐えない唄のようなものを言う。これは、気疲れ、体の衰え、気鬱、食も通らぬこと、暗がりを愛するなどの症状から連想される音楽である。ヨーロッパでルネサンスに流行した「メランコリー」が体液と疾病の名称であったと同時に、絵画や版画、詩作や音楽でも積極的に用いられたのと類似している。
労瘵についての風俗と遺伝を並べると、異なった性格の共存が明らかになる。一方では恋の病でもあり、文化と美の洗練の極致であった遊女の病でもあったので、病気も優婉閑雅な趣をもつとされた。しかし、遺伝に眼をむけると、これは伝尸(でんし)と捉えられ、親から子に伝わり一族が殲滅される疾病でもあると考えられており、ハンセン病について言われていた遺伝性と血筋の問題と重なる部分もある。治療も、ヒロイックでグロテスクですらあるものが採用された。どくろをけずったものとか、そのたぐいである。これは重篤で血の筋に深く食い込んだ病気ということと関係あるのだろう。
もちろん議論の欠陥も数多い。美人の顔のかたちが瓜実から丸顔に変わったのは労瘵が流行したからであるという議論は真面目に取るべきではない。労瘵が梅毒の流行によって変質して、イメージも変わったという議論は、正直、何を論じているのかがよく分からない。しかし、文化と疾病、あるいは複数の疾病のエコシステムを感じさせる方向である。医学史研究の一つの優れた形がこの時期に書かれていることは注目したほうがよい。