尹健次「民族幻想の蹉跌―『日本民族』という自己提示の言説」『思想』no.834, 1993年12 月号, 4-37.
「日本民族」という概念についての古典的な論文を読んで、優生学の歴史の執筆の断片をメモ。
日本の優生学の最も重要な目標は、戦前・戦中においては、健康な子供が数多く出生する社会を作り上げることであった。その目標を妨げる主たる障碍は、出生の数が減少することと、悪疾の疾病の遺伝を作り上げる可能性が高い血族結婚であった。出生数が減少しているのは、都会の教育と所得が高い世帯であって、田舎の農家では減少していないから、田舎型の出生のパターンが目指すべきモデルになる。一方、血族結婚については、田舎では多かったが、都会では少なくなっていたから、こちらは都会型の結婚パターンがモデルになる。日本の優生学の目標は、既存の確固たる単一のモデルを目指すという性格ではなかった。日本の医学はこれまで「西欧国家のように」という目標を掲げてきたし、この時期においても結核対策などは西欧型を目指していたが、優生学の目標における西欧諸国は、あまりにも出生率が低いという欠点を持っており、目標として機能しなかった。優生学が目指したのは、地方部と都市部を複合されてできる新たな出生のパターンであった。この目標を全国で調整することは政策的に難しいのだろうが、個人や世帯のレベルで実行されるときには、出生数を増やすこと・血族結婚を避けることという、二つの現実的な行動の規範を考えればよい。
重要なポイントは、血族結婚と血縁の概念は、戦前・戦中の日本の国家にとってイデオロギー的に大きな意味を持っていたことである。明治維新以降の日本の国民=国家の概念は、血縁集団に大きく依存していた。日本国家の国民は、血縁と血族を基盤とする民族であり、その祖先神としての天皇の崇拝が国体の基礎であると考えた理論家たちもいた(16) このような国家と民族・人種の観念は、対外的な関係において、すなわち、アイヌ、朝鮮人、中国人、満州人、南洋人といった「近い他者」や、ヨーロッパやインドなどのような「遠い他者」との関係において理論化されてきた。日本国家を世界の中においたときのまとまりを考える装置が血縁の概念であった。民族と国家の理論が導いた想像上・理念上の血縁の概念であった。
優生学が提起した問題は、このような他者との関係を理解する想像上の装置としての血縁ではなく、ある狭い共同体における現実の血縁の問題であった。前者が「大和民族」に単一の均質性を与える仕掛けだとしたら、後者は、村や隣村などにおける結婚と生殖を細分化する生物学的な装置であった。それならば、想像上の血縁と生物学的な血縁の関係がどのように変わったのか。優生学は生物学的な血縁の概念をどのように変えたのか、そしてそれは戦前・戦中・戦後における想像上の装置としての血縁の概念の変化とどう関係していたのか。両者の変化の中に位置づけたときに、日本の優生学はどのような姿をとるのか。それがこの小論の問いである。
画像は優生学的・精神医学的家系調査が1940年に行われた三宅島の事例から作成された家系図。