優生学と文学 I

いま、『ドグラ・マグラ』についての原稿を一本用意していて、その背景として、 日本における優生学と文学の関係について少し書いてみました。臨床と政策における優生学と、文学における優生学的な想像力の関係を どう考えたらいいのか、手さぐりで考えている状態です。コメントがあればよろしくお願いします。なお、これは未定稿というか下書きですので、まだ引用しないでください。

 

優生学は19世紀の末から20世紀の中葉にかけて世界の医学で大きな影響力を持った視点であるが、近年の歴史研究は、欧米の各国において優生学が取った形は大きく異なっていたことを示している。それぞれの国家において、優生学が掲げた目標、それが実施された方法、そして影響力の大小において鮮明な違いが存在した。たとえばナチス・ドイツのように、精神病者・精神障碍者を抹殺したケース、アメリカの州、カナダ、北欧諸国のように積極的に断種を行ったパターン、イタリアやスペインのように男性の性的能力の向上を訴えたパターン、ソ連のように遺伝学研究を強調したパターン、そしてイギリスのように第一次大戦後には優生学の影響力が衰退したパターンなどである。このように各国において違いが現れたのは、一般的・抽象的には、医学や医療が政治・社会・文化などに深く影響されることを示しているし、より具体的には、公衆衛生の側面と遺伝子などを研究する実験室の医学のという医学研究のシステムの中の二つの要素を持っていたこと、優生学は家族、家系、ジェンダーなどの国ごとに大きく違った特徴を持つ問題に直接かかわる主題であったこと、そして個人の生殖にどれだけ国家が干渉するべきであると考えられていたのかということなど、それぞれの国家によって大きく変わってくる要因を優生学が持っていたことがあげられる。

 日本の優生学は、欧米の優生学を輸入しながらも、欧米における実施とは大きく異なっていたことも当然である。家族制度、家系の維持の習慣、社会におけるジェンダーのアンバランス、精神医療のありかたなどが、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカなどの欧米の国家とは大きく異なっていた。ことに、戦前においてはこれらの要因の違いは戦後よりもはるかに大きかった。家の存続に大きな価値が置かれ、家長は原則的に男子と定められ、女性に参政権は与えられていなかった。また、違いを最も鮮明に見ることができるのが、精神病院のありかたである。戦前の日本においては、公的な精神医療が欧米に較べた時にはるかに小規模であったこと、精神病患者のケアと管理は理念においても現実においても個人と家族の問題として捉えられていた。1900年に制定された精神病者監護法は、危害を加える恐れがある精神病患者に対する監禁とケアの責任を原則としてはその患者の家族に課していた。このような事例は「私宅監置」と呼ばれ、長いこと精神病院に入院していた患者よりも数が多く、精神病院に入院していた患者が私宅監置の数を超す状況が確定したのは1930年近辺である。府県立の精神病院は、1875年に開設されて82年に廃止された京都の精神病院を除くと、1879年に設立された東京の一つしか存在しない状態が1925年まで続いた。その後、1920年の精神病院法を用いて府県立の精神病院が建設されたが、1940年の段階でも公立の精神病院は合計で8つ、病床でいうと3000程度しかなく、残りの約2万床は150程度の私立の精神病院が提供するものであった。そもそも、約6千万人の内地の人口に対して2万3千という精神病床数は、同時代の欧米の国家の人口あたり病床数の十分の一から二十分の一程度であり、精神病院に収容すること自体が、戦前の日本においてはいまだに発展していなかった。そのような状況のもと、日本における精神医療と優生学の結びつきが非常に弱く、精神病医たちは1940年の国家優生法にむしろ反対する立場を取っていたことは、日本における優生学の一つの特徴であった。

 優生学的な関心に基づいた精神病に対する医学・医療、特に政策的な実施が戦前の日本では未発達であったのと対照的に、優生学は文学の領域で非常に強い存在感を発揮していた。欧米で影響力を持った優生学者の著作の中でも、政策的な実践に関連する主題よりも、文学・芸術・思想により深く関連する著作のほうがより多く翻訳される傾向があり、翻訳は文学に関連する著作家によって行われていた。たとえば、イタリアの医学者のロンブローゾを例にとると、彼の著作の日本語への翻訳は合計で11点の出版物が存在するが、そのうち犯罪関連は2点であり、1点が心霊術に関するもの、残りの8点は天才論である。[表x] 天才論の翻訳のうち、もっとも人気があって合計6点が出版されて数多くの版を重ねているのは、ダダイストの文学者として名高い辻潤(1884-1944)によるものである。書籍の形ではもっとも早い1898年に出版された翻訳は、英文学者で一高の英語教師であった畔柳都太郎(1871-1923)によるものである。それ以外にも、後に精神病医となったが、小説家で雑誌『変態心理』の編集者としての活躍が名高い中村古峡(1881-1952)が訳したロンブローゾの書物は、優生学の臨床と政策的な実践とは正反対の方向である心霊術を取り扱ったものであった。ロンブローゾの著作の翻訳は、天才論と心霊術という文学や思想と親近性が高い主題に重点があり、臨床的な医学や公衆衛生的な民族の改良とは異質な言説空間に位置される傾向が高かった。類似の傾向は、イギリスの優生学者であるフランシス・ゴールトンの翻訳についても見受けられる。ゴールトンの著作で書物の形で翻訳されたものは2点であり、いずれも天才と遺伝についての著作の翻訳である。1916年の翻訳の訳者は、女性の心理学者でアメリカのコロンビア大学で博士号を取得した原口鶴子、1935年の翻訳の訳者は哲学者の甘粕石介である。