松原洋子「優生保護法という名の断種法」

松原洋子「日本―戦後の優生保護法という名の断種法」
米本昌平他『優生学と人間社会』(東京:講談社, 2000)に所収された、松原洋子「日本―戦後の優生保護法という名の断種法」を読み直す。
いまから12年前の2000年に出版された書物である。2000年というのは、1996年に優生保護法を大幅に改正して母体保護法となったときの流れがまだ生きている時期であり、戦後日本でも優生主義のもとで不妊手術が行われていたこと、そしてその法律がまだ生きていることに対する驚きのようなものがあった。優生手術のピークは50年代後半から60年ごろで、90年代になると手術の件数も少なくなり、当時外国で優生保護法の存在が諸外国のマスメディアや障害団体に暴かれた現場にいた人に聞いたのだが、そこでは他の省庁の官僚たちはその法律の存在を知らず、厚生省の官僚ですらどのような法律なのかファックスを送ってもらって確認しなければならなかったほどだったという。日本で85万件の不妊手術が行なわれ、1万6000件の強制不妊手術が行われるときの法的根拠であった法律は、90年代にはその存在すら知られていない法律になっていたという。

本書にもどって、1940年の国民優生法と、1948年優生保護法という二つの法律がどのように対比されているかチェックした。前者については、それ以前の長い優生学運動を背景にしたものであったが、より直接的には、1938年の国家総動員法が国民の体位・体力の向上を求めたことと関係がある。この結果作られた厚生省は、民族優生のための調査研究も行ったが、結局は、戦中の人口政策の多産奨励が重要であった。もともとは「断種」の考えを強く持っていた一群の議員たちによって提案されたものであるが、この考えは、結局戦中はほとんど実施されなかった。1941年から48年までのあいだで、538件の不妊手術という数値が、この法律がいかに無力であったかを物語っている。その理由は、天皇を頂点とする家族国家主義や家制度を基軸とする当時の国体主義が、人類遺伝学、民族生物学に基づく人口管理をめざす官僚たちの方針となじまかったこと、強制断種はむしろ凍結されたこと、精神病院患者の収容率が当時は著しく低かったこと、そして戦況が悪化したこと・戦後の混乱は、同法の施行を難しくしたことなどがあげられる。

一方で、1948年の法律は、人口思想・人口政策でいうと、まったく正反対の状況で作られた。多産ではなく、産児制限を認めていくことである。しかし、産児制限を認めると、戦前からヨーロッパの状況から「逆淘汰」として恐れられていたこと、すなわち、優れた資質を持つものが出生率をさげ、そうでないものが出生率を上げることになって、国民の質が下がることが起きるのではないかと危惧されていた。質をさげないためには、遺伝性の疾患とされたものが生まれないようにする優生学的なことが必要であった。特に、51年・52年の改正で、精神病や精神薄弱のなどに対する処置が詳しく定められた。

全体としては、人口政策の大転換、そして松原は詳細には述べていないが終戦に伴うイデオロギーの転換に応じて、1948年法は、優生の規定がより強化されたものになったということになるのだろうか。まさか、法的な規定が強化されると、500件の手術が80万件になるような大革新が起きると主張しているわけではないだろうけれども。