林道倫
林道倫(はやし・みちとも・生没年1885-1973)は日本の精神医学者。東京帝大で呉秀三に学び、ドイツに留学して帰国後に岡山医科大学の精神科の教授となるエリートコースを歩いた人物の一人。岡山時代の大きな業績として、正体が分からないまま流行していた日本脳炎のメカニズムの研究がある[ まだよく分かっていない]。二回目のドイツ留学の時にドイツ人女性と結婚した。戦後は岡山大学の学長や、学術会議の会員などをつとめる。論文集が『林道倫論文集』として昭和59(1984)年に出版されている。掲載されている業績は日本脳炎が一つの中心であり、それ以外のいくつかの主題に、精神医学の用語の決定がある。昭和13(1938)年の「神経精神病学用語統一委員会」の委員長が林であり、現在の精神医学で使われている多くの用語がこの委員会で決定された。その代表的なものが、まさしく「精神医学」という用語であり、それ以前は「精神病学」と呼ばれていたものである。それから、これは統合失調症にとってかわられたが、「精神分裂病」もこの委員会が定めた語である。それ以前に用いられていたいくつかの名称の中の「乖離」という語をめぐって、杉田直樹が面白いことを言っているとのこと。「学術語はあまり平易なのは素人に誤解される弊を伴って面白くない。精神分裂病ではなく乖離でなければならぬ」(248) というもので、これは色々な場合に引用できる使いやすいセリフである。
それ以外に精神鑑定書が、読みごたえがあるものが三点あった。
林道倫「尊属殺人犯被告人河〇た〇の精神状態鑑定書」『林道倫論文集』(東京:国際医書出版、1984), 101-122.
林道倫「強盗殺人犯被告人〇野〇雄鑑定書」『林道倫論文集』(東京:国際医書出版、1984), 143-158.
林道倫「抑鬱反応と慢性脳炎とを持った殺人未遂犯人」『林道倫論文集』(東京:国際医書出版、1984), 159-172.
「例えばここに悖徳型なる病的人格者がありとする。感情意志の病弱たるの故をもって[刑事]責任の軽減免除があるだろうか。否、むしろそれは、社会生活の脅威である悪性であるという故をもって強く罰せられるだろう」
第三の論文:医師は精神症状の記述だけで、責任については一切言わないのは反対であるから、このような論文を書いた。(弟の妻と、自分の実母と関係を持つ三角関係を持っていた男の性格について)
細かいメモ:河〇については、興奮のありさまをフィルムで撮影しており、活動写真があるとのこと。
呉先生が[ドイツ留学中のハイデルベルクで]最傾倒せられたのは、[クレペリンではなく]、フランツ・ニッスルであったろうと思う。巣鴨病院の院長室にはこの水彩画が山と積まれていた。 330