慶應日吉の同僚の生物学者の鈴木先生からクマムシの書物をいただいたことがある。鈴木先生は多くの真面目な論文も書いているのだろうが、この岩波の書物はクマムシについて一般の人々に向けて語った面白い書物である。ことに「クマムシ伝説の歴史」と題された第三章は、クマムシについての18世紀から20世紀のヨーロッパの研究をまとめていて、とても面白い。イギリスやアメリカの科学史研究者が行うような、学術としての科学史研究として優良かという問題ではない。科学者が歴史の一角で、細かなことを調べて丁寧に楽しんで書いているありさまを感じることができる。科学者としての科学史の人文系の楽しみ方はこうであるといつも教えられる。
面白い歴史的な逸話がたくさん盛られているが、エルンスト・マルクスと妻のエブリンについて。エルンスト・マルクスは1920年代の後半にクマムシについての論文や書物を数多く出版した。 Baertielchen (1928) や Tardigrada (1929) などがそうである。それまでの情報を網羅したクマムシ研究の一里塚であるだけでなく、挿絵が素晴らしく美しく、これは妻のエブリンがすべて描いたものであるとのこと。このエブリンは、科学者や医学者の名家の出身である。祖父はベルリン大学の生理学の教授のエミール・デュ・ボア・レーモン、父もベルリン大学の生理学の教授のルネ・デュ・ボア・レーモンである。子供のころに父親の顕微鏡をのぞいて美しい世界に惹かれたという。ベルリンで動物学の教育を受けているときに、ベルリンの動物学の教授であったエルンスト・マルクスと結婚した。エブリンは23歳くらい。若きエルンストとしては、教え子のエブリンと結婚したことになる。現在では眉を顰められる行為だろうが、当時はむしろよいことと考えられていたのだろう。その後も夫と共同して研究し、彼女は細密で美しい挿絵を描いたという。本書が口絵1として真っ先に選んでいるカラーの図版は、1929年に刊行された Ernest Marcus, Tardigrada の一枚である。鈴木先生の学生たちも、とても好きになっているという。この挿絵の魅力を何といえばいいのだろうか。博物館的な写実性が失われていくということだろうか(笑)